ちゃんこ鍋で有名な飲食店『玉海力』。広尾にある1号店のオープンから21年、直営店の広尾(9月末で閉店)、銀座のほか、武蔵小山、赤坂、上海、プノンペンにまでフランチャイズ店は拡大している。
経営者である河邉幸夫(50)について、現役社員たちは「熱い方、男気がある」(入社1年目)、「だめな時はだめで、しっかり叱ってくれる熱い芯のある人」(入社4年目)、「年下の子思い、につきる」(入社6年目)など、"体育会系"の熱い言葉を口にする。
■不良から力士へ、そして29歳で引退
1966年、東京・渋谷生まれの河邉。幼稚園の入園時、他の子よりも体はひときわ大きく、年長になる頃には体重は50kg近くになっていた。小3でランドセルを背負えなくなり、小6で身長180cm、体重100kg、足のサイズは29cmに達した。「みんな半袖半ズボンだったのに、一人だけ柄シャツにスラックス。冬は革ジャンを着て登校していた」。
地元では敵なしで不良になっていった河邉。横綱に憧れ、中学2年には片男波部屋に入門する。地元では敵なしだった河邉も、相撲部屋に入門すると"おもちゃ扱い"だった。
「もう全然通用しなかったんです。(兄弟子たちは)みんな鋼の体だった。岩みたいで、思いっきりぶつかってもびくともしない」。当時は稽古も厳しく、理不尽なしごきにも遭った。「わけもなく殴られましたね。『いつか殺してやろう』と思ってそいつらの名前を手帳につけていました」「胸に穴を開けてやろう首の骨へし折ってやろうと思ってぶつかっていた」と振り返る。
厳しい稽古を積むうちに実力が付き、楽しくなっていった。親方のしこ名から文字を借り「玉海力」と名乗った河邉。15歳で初土俵を踏んだ。同期の中では実力的に頭一つ抜け出ており、相撲界で順調に活躍していく、はずだった。
17歳のときのこと、取り組み中に首の骨を折り、右手も複雑骨折。骨移植にも失敗し、一時期は歩行も困難になった。番付は、幕内から三段目まで転げるように落ち、年収も2500万円から60万円になった。必死のリハビリによって、半年間の車椅子生活から稽古に戻れるまで回復したが、もはや勝つことは難しくなっていた。「稽古もできるけど芯から湧き出る力がなくなっちゃった。これは潮時だなって思った」。引退を決意した。29歳だった。
■大恩人は「いじめられっ子」
相撲界に残る話もあったというが、「平幕だった自分が残っても…」という思い、そして、「起業するしかない」という思いがあり、退職金の1000万円を元手に物件を押さえ、「ちゃんこ屋」を始めた。
しかし、これもすぐに行き詰まってしまう。「銀行がカネを貸してくれなかったんです。そもそも事業計画が甘くて、審査の段階にすら行かない。信用もされなかった」。当時は「居抜き物件」という言葉も存在せず、ツテもなかったことから、機材はすべて新品で揃えるしかなかった。5000万ほどの初期投資も、到底自分でどうにかできる額ではなかった。
早くも行き詰まった「ちゃんこ屋」の出店計画を救ってくれたのは、酒店の3代目だった小学校の同級生だった。河邉は、彼がいじめられていたところを救ったことがあり、「店やるらしいじゃん。お酒をうちから取ってくれるなら保証人になるよ」と申し出てくれたのだ。おかげで銀行から融資を受けることができることになり、広尾に1号店を出店した。
鍋のシーズンが始まる10月というタイミング、広尾という土地柄にちゃんこ鍋という物珍しさもあり、客足は順調だった。しかし、春の訪れとともに来店者数に急ブレーキがかかる。「商売って簡単」だと思い上がってしまっていた河邉。「メニューは鍋だけじゃない。刺し身も唐揚げもあるのに客が入ってこない」と、慌てて次の手を打った。
それが「店頭焼き鳥作戦」だった。「年配の社員に店頭で味のある雰囲気で焼き鳥を焼かせ、通った客に声をかけよう」という戦法だ。さっそく年配社員をかっぱ橋に走らせて機材を調達、焼き鳥店に修行に行かせた。間もなく店頭には赤ちょうちんと焼き鳥の香ばしい匂いが立ち込めた。広尾駅前を行き交う人が「何屋さんですか」と声をかけ、次々と入店するようになった。「これは当たりましたね。V字回復でした」。
また、目玉メニューの「塩ちゃんこ」にも工夫を凝らした。力士時代に食べていたちゃんこは、"おかずで食べるもの"。相撲部屋と同じものでは、煮詰まってどんどんしょっぱくなってしまう。3年にわたる研究の末にたどり着いたのは、たまねぎだった。「鍋にざく切りにした玉ねぎを普通のちゃんこの3倍くらい多めに入れる。煮込んでも玉ねぎの成分で辛くなりにくい」。豚だけではなく、牛すじベースのスープを何度もこすことで、キレイなスープを作り上げた。
■店員が客に「安いのがいいなら○○へ行け」と言うことも容認
ちゃんこ屋の経営が軌道に乗り始めた頃、再び河邉の心に火が灯る。なんと、総合格闘技PRIDEのリングに上がることを決意したのだ。「力士を怪我で辞めたので、未練たらたらだったんです。あそこへ行きたいって思うようになった」。
最初の相手は、"PRIDEの番人"こと小路晃だった。試合まで「こんな弱いやつじゃだめだ」と小路を挑発し続けた河邉だったが、蓋を開けてみれば豪快なフックをもろに食らい、倒れたところをすかさずサッカーボールキック。「相撲って避けることがないんですよ」(河邉)。秒殺だった。頭を切ってしまい、ドクターストップをかけられるという、あっけない幕切れだった。
パンクラスに通い、訓練を積んで臨んだ2戦目も同様だった。試合前に網膜剥離が発覚するも、「後で怒られましたけど、これがラストチャンスだった。最悪のことがあっても片目でも生きていけるかな、と」、黙ってリングに上った。腕を折られてしまい、それでもギブアップしなかったため、レフェリーストップがかかった。「これで燃え尽きた」。ようやく力士時代から残っていた未練を断ち切った。
現在は店舗の経営に専念する河邉。「会社は信用でしか動かない。一生の友だちでも仕事は別」と、冷徹な判断を迫られることもあると話す。だからこそ、「関わる全ての人を幸せにする企業でありたい」という経営理念を記し、社員手帳を配る。だからこそ、経営姿勢もぶれない。『玉海力』のターゲットは「部下を連れて飲みに来る40、50代の男性」。しばしば価格の高さを指摘されることもあるが、客に対して店員が「安いのがいいなら○○へ行け」と言うことも容認している。それも、「安さ」で感動するのはたった1回だという信念からだ。「うちは感動よりも安心を与えなさいと言っている。感動は次には不満に変わってしまう。その点うちは安心。『やっぱ玉海力のちゃんこ美味いね』って言わせることを心がけている」。
顧客管理システムを自前で開発、販売するなどビジネスを多角化。「覚悟・根性・志、3Kです」。「飲食業でのブラックなイメージを払拭したい」とはっきり語る河邉は、新たな未来を模索し続ける。
(AbemaTV/『偉大なる創業バカ一代』より)