「外食業界の鬼才」と呼ばれる男がいる。それが『際コーポレーション』を率いる中島武(69)だ。都内で破竹の勢いを見せる『紅虎餃子房』、通称・紅虎を全国に73店舗、それ以外のブランドを含めると400店舗近くを全国で展開する"攻め続ける"創業者だ。
近年新規オープンさせたのが、西麻布にある「龍眉虎ノ尾」。中国割烹を提供するこの店はカウンターがメインで、別の中国料理店で腕を振るう料理人が季節ごとに入れ替わるという新しいスタイルの店だ。また、9月にオープンしたばかりの「鶴亀樓」では、数種類の芋を丁寧にすりおろし、5種類の味噌をブレンドしたスープが自慢のオリジナル鍋「とろろ鍋」が名物になっている。
飲食業の他、アンティーク家具や衣料品・雑貨、さらに旅館の再生事業まで手がけ、際グループ全体では383店舗にのぼり、年間売上高は300億円を超える。今でこそ強力なリーダーシップでスタッフを率いる中島だが、創業当時は料理も経営も、経験はゼロだったという。
強面で、「泣く子も黙る」と言われる拓殖大学応援団の団長を務めた経歴も持つ中島。度重なる逆境を、その"応援団魂"で生き延びてきたという、その創業人生に迫った。
■今も母校の応援団で活動
中島が応援団長を務めていたのは、学生運動の時代。学生たちはそれぞれにイデオロギーを持ち、どう生きるかという選択肢を突きつけられていた。「過激な人の意見が世の中を支配していく時代だった。自分の立ち位置が難しい時代だった。カネが無くて、質屋に自分のモノを入れて、腹減った後輩たちにご馳走することもあった。"メンツ"って言うとナンセンスかもしれないけど、人の上に立つリーダーとしてやっていくためには"覚悟"がいる」と振り返る。
今でも応援団としての活動を続けている中島。10月下旬、母校・拓殖大学のキャンパスにその姿はあった。今でも母校に寄付をしたり、後輩のチアリーディング部にユニフォームを提供したりするなど、支援を続けている。「掛け声とか気合が感じられます。迫力がすごくある」とチアリーディング部の女性。
この日は文化祭の真っ只中。もちろんただ遊びに来たわけではなく、草履に紋付き袴で舞台に登場すると、仲間たちと息の合った演舞を披露する。
「空手部だとかは体を鍛えて試合に勝てばいい。でも応援団には試合がない。厳しいことに立ち向かって、克服することだけ。だから厳しい」。
■初めての飲食店は"大失敗"
大学卒業後は航空会社へ入社したが、「どうにも居心地が悪かった。『中島くん、ヨット行こうよ』とか言われて。合わないな、と」。金融事業や自動車の販売などを経験したのち、飲食業界へ参入した。その原点とも言えるのが東京・福生で始めた「韮菜万頭」という店だ。その名の通り、ニラ饅頭を全面に打ち出した。
しかし、飲食の経験はゼロ。大事なオープン初日にとんでもない事態が起きる。「働いていた子同士が殴り合いのケンカをしちゃって。練習もせずに店を開けるもんだから、料理はぐちゃぐちゃ。あげくにニラ饅頭が臭くて」と苦笑する。
怒号が飛び交う店内も、3日目までは満員だったが、4日目からピタリと客足は止まった。「最後はスタッフも接客したくなくなっちゃって引っ込んじゃった。『うちは不味いものを出しています』って宣伝しただけだった」。
客から「ここは薬屋さんかって言われた」ほどの、散々な飲食業界デビューだった。
■東日本大震災の時に出した「メッセージ」
会社が軌道に乗り、順風満帆に進んでいた矢先に起きた東日本大震災。中島が赤坂でラーメン店を営業すると、温かい食べ物を求め人々が訪れた。「飲食店をやっていて良かったって思った。何か苦しい時でも何かやることがひとつでもあれば人間は希望が持てる」と感じた。
震災の影響で、「売上が月間10億円以上減った。売上が20億円あったから、ちょうどそれが半分になった」。そんな中、社員に向けた手紙には「日本国以来の大地震、そして原発問題、災害に遭った方々、ご家族にとって実に大変な出来事です。我々はこの危機に右往左往せず、腹を据えて今、出来ることをしましょう」と記した。「人間ってそういうリスクがあるときにまとまる力は強くなる」。そう語る目は、応援団長時代の眼差しだ。
■「茶髪禁止」「歯を治してからお店に出ろ」
中島は自ら厨房に立つだけでなく、書やイラストも描く。紅虎餃子房の虎のイラストも中島が描いたものだ。しかし、それらは全て我流だという。「師匠について習ったものはない。料理も文字も、イラストも描いているうちに段々上手になる」。そんな中島が試行錯誤を重ねて開発した細長い形の「鉄鍋棒餃子」は、店一番の人気メニューになっている。
頻繁に中国を訪れる中島。そこで本場の中華料理の味を学んでいる。「本当の回鍋肉はキャベツを使わないんですよ。味噌も甜麺醤(てんめんじゃん)も使わない。ゆで豚と葉ニンニクを使う。味付けは醤油と麻辣醤(まーらーじゃん)なんですよ。それに、もともと日本の餃子は羊を使っていたと言われている。羊が安かったから。そういう歴史も面白いんですよ」。
厨房に入るにあたって、中島が課しているルールがある。それが「茶髪禁止」だ。「昔は厨房に入る連中は丸刈り、という時代もあった。今そんなこと言ったら大変なことになるけどね。でも今でも銀座あたりの売れっ子の寿司屋はみんなくりくりの丸刈りですね」と語る。他にも中島が口うるさく言う点が「歯」だ。「歯が抜けてたり、虫歯の人たちが昔はいた。そういう人に対しては『歯を治してからお店に出ろ』と言っていた」と話す。
そして口癖は「中国人を見習え」だ。「『社長いなくても大丈夫。僕達が開けといた』と言うんです。オープンしてないのに、勝手に早く開けてるんですよ。『社長、一日でも早く開けたらお金が入ってくるよ』って」。労働に向き合う姿勢についても驚かされたという。「中国人スタッフに『休め』っていうと泣くんですよね。どうしたんだよ?って聞いたら『社長が僕に意地悪する』って言う。正月お客さんいっぱい来るよ、なんで休むんだ!仕事すれば給料がもらえるよ。もったいないだろう」。
若い人たちのパワーに驚かされたという。「向こうへ行くと若者たちが会社に勤めて、他に一つ二つ別の仕事してますよね」。
■「たまたま生き残ったんでしょうね」
飲食店の数は2001年が直近のピークで、それ以降は減少が続いている(出典:厚生労働省 衛生行政報告、一般社団法人、日本フードサービス協会)。生き残ることが難しい環境下で紅虎餃子房を創業した中島は「参入障壁が低いから、みんなできると思うんでしょうね。僕も昔はそうでした。たまたま生き残ったんでしょうね」と笑う。
拡大し続ける際コーポレーションについて「一つ一つ、世の中に認めてもらえるお店をつくることが大事。働く人たちがモノを作ることに前向きでいてほしい、そういう環境を作りたい」と話した。(AbemaTV/『偉大なる創業バカ一代』より)