![レジェンド葛西紀明選手を生んだ、市町村別メダル獲得数「日本一」の下川町とは?](https://times-abema.ismcdn.jp/mwimgs/5/d/724w/img_5d3249771625ef5ad9e5f65c96bf61cd628635.jpg)
平昌オリンピック開幕まであとわずか。メダル獲得に期待が高まるスキージャンプ競技で、これまで多くのオリンピック代表を輩出してきた北海道上川郡下川町。
平昌五輪のスキージャンプ代表に選ばれ、力強い言葉を話してくれた伊藤有希選手。8大会連続の五輪出場となるレジェンド・葛西紀明選手。ソチに続く代表に選ばれた伊東大貴選手。3選手とも、この人口3500人足らずの小さな町の出身だ。出身者が冬の五輪で獲得したメダルは6個。これは、市町村別メダル獲得数では日本一だ。そんな下川町をタレントの黒田凛が体当たり取材した。
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旭川空港から車で約2時間、名寄市ピヤシリシャンツェに到着した黒田。このノーマルヒルは、アプローチ直線斜度35度、K点が90メートル。目の前にそびえ立つこのジャンプ台に圧倒され、飛び立つ自分を想像し「いやいやいや絶対無理!」と苦笑い。ジャンプ台の頂上からの景色に、「怖っ」と本音が漏れた。
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下川町でオリンピアンが育つ理由は、大きく3つある。1つ目は「4つのジャンプ台」だ。下川町の周囲に高い山はあまりなく、急斜面が少ない。そのため昭和30年代、アルペンではなくジャンプ台が流行したのだという。小規模な斜面に手作りのジャンプ台を作り、飛距離を競った。これが娯楽として人気となり、競技人口の増加につながった。今ではナイター設備の付いたジャンプ台もある。人口約200万人の札幌市には5台あり、およそ40万人に1台の計算だが、下川町では850人に1台となる。子どもたちも無料のリフトを使って、心ゆくまでジャンプを楽しむことができる。
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2つ目の理由は「子どもの頃から飛びまくる」だ。1972年の札幌五輪では、日本の"日の丸飛行隊"が冬季初の金メダルを獲得。この5年後には「下川ジャンプ少年団」が誕生し、1984年のサラエボ五輪にはこの中から嶋宏大が出場、1992年アルベールビル五輪には葛西選手が19歳で自身初となる五輪に出場している。下川ジャンプ少年団のスローガンは、「どうせ飛ぶなら世界一」。葛西選手ら歴代のOB・OGが残していった用具は子どもたちに引き継がれていく。メダリストたちの用具を使用することで、子どもたちは世界を身近に感じることができるのだ。
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3つ目の理由が「メダリストは大体友達」だ。少年団のコーチは、教育委員会の職員として小さな子どもから高校生までを一貫指導している。子どもたちは毎日夜7時まで飛び続け、町もそれをバックアップしている。
日本代表ジュニアコーチの伊藤克彦さんは「まっすぐ滑るだけなので、飛ぶか飛ばないか、落ちるか落ちないかという感じなので。大丈夫だと思う。下川のジャンプ少年団は、朝9時にみんな集まってジャンプを飛ぶ準備を始めるので、もしよければそのタイミングで来ていただければ一緒にできる」と黒田を勧誘。
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翌朝9時、伊藤コーチとの待ち合わせ時間には、既に沢山の子どもたちの姿が。雪の中、ジャンプ台の整備をしているのが、下川ジャンプ少年団のメンバーだ。最年少は5歳。下川町の子どもたちは、小学校入学前からビュンビュン飛んでいるのだ。
下川ジャンプ少年団を指導して24年になる伊藤コーチは、多くのオリンピアンを生み出しただけではなく、なんと伊藤有希選手の父親でもある。伊藤選手が使っていたというジャンプスーツに身を包んで準備万端の黒田は、激しい降雪の中ジャンプ台へと向かった。
スキージャンプの選手が使用している板は、普通のスキー板よりも軽く、長く、太くなっている。これは、空中で風を受けて浮力を上げることによって飛距離を伸ばすためだ。板の長さは国際スキー連盟(FIS)の規定で細かく定められている。最長で身長の146%までとなっており、小柄な日本の選手には不利だと言われている。
ジャンプスーツも、体の各部サイズからプラス3cmまで、ウエストはプラスマイナス0cmまでと定められている。さらに、生地の素材や通気性、厚さまで細かい規定がある。そんな中で、いかにぎりぎりまで攻めて浮力のあるスーツを作れるのかが職人の腕の見せ所だという。
今回黒田が挑戦するのは、下川スキー場が誇る初心者用ジャンプ台「ミニヒル」。K点は8メートルだ。一見コブにしか見えないが、オリンピアンをはじめ、下川のジャンパー全てがここを通ってきた。伊藤コーチによると、有希選手がこのミニヒルを初めて飛んだのは4歳だったという。
伊藤コーチが「名コーチを準備しました」と紹介したのが、日本スキー連盟の強化指定選手にも選ばれている下川商業高校3年の五十嵐彩佳さん。まずは五十嵐さんが飛んでお手本を見せる。
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体を小さく屈めて空気抵抗を抑え、スピードを上げる助走姿勢。一気に踏み切ると、体を大きく広げて風を受け、少しでも多くの浮力を得る。これが、遠くまで飛べるフォームだ。
緊張する黒田に五十嵐さんは「まっすぐ滑ることを意識して。ほんの数センチでも変わってくるので、タイミングを合わせるのを意識して」とアドバイス。決意を固めて飛んだ黒田。一度は綺麗に着地したものの、バランスを崩して転倒した。「怖かった。ちゃんとやらないと落ちるかなと思ったので、前だけ見て飛んだ」。五十嵐さんと伊藤コーチは、拍手で黒田の勇気を褒めたたえた。
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この日のことを振り返り「飛んだ瞬間の記憶がない。フォームとか色々教えてもらったが、全然何も考えられないくらい怖かった。上に立つと着地点が見えない。幅もけっこう狭いので、ちょっとでもグラッとしたら横に落ちるという怖さもあった。それなのに飛べたのは不思議。伊藤選手のスーツのおかげかな」。
平昌オリンピックでは8日からスキージャンプの競技が行われる。日本選手団の活躍に注目だ。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)