決戦前夜に流れている空気は、どこか6年前と似ている。第76期名人戦七番勝負が11日、ホテル椿山荘東京(東京都文京区)で開幕する。3連覇を目指す佐藤天彦名人(30)に挑戦するのは、順位戦A級で史上初の6人プレーオフを制した羽生善治竜王(47)である。羽生は2年前に名人位を奪われた佐藤を相手に10期目の獲得に挑み、タイトル通算100期の金字塔を打ち立てるためのシリーズになる。
名人VS竜王。将棋界の象徴である2人による頂上決戦となるが、どうしても気懸かりになってしまうのは名人の状態だ。
昨期の佐藤の年度成績は通算16勝19敗。2006年度の四段昇段から12期目にして初めての負け越しを喫した。まだ30歳で、前期まで7割超の通算勝率を誇っていた男にとっては「スランプ」と評されても仕方のない結果だったと言える。
対する羽生は、プレーオフで若手俊英の豊島将之八段(27)と稲葉陽八段(29)に完勝し、充実ぶりを示した。公式戦では2月の藤井聡太六段(15=当時五段)戦での敗戦後負けなしの5連勝。相変わらず「さすが」と称えるしかない力を見せている。第三者の間で羽生の復位を予想する声が広がるのは当然とも言えよう。
あの時も同じような空気が広がっていた。2012年度の名人戦は、十八世名人資格保持者である森内俊之名人が十九世名人資格保持者の羽生王位・棋聖(いずれも当時)を迎え撃つゴールデンカードだった。
同年度での羽生は順位戦A級を9戦全勝で突破。直前のNHK杯でも優勝を果たし、誰に目にも好調を維持しているように映ったが、一方の森内は開幕直前まで公式戦11連敗を記録するなど低迷していた。
羽生の名人奪還を予想する声が圧倒的に大きかったが、終わってみれば勝ったのは森内だった。徹底的な事前研究の深度を見せつけ、微差のリードを守り切って勝つ森内将棋の神髄を披露して4勝2敗で防衛、2連覇を達成している。
棋士がいかなる対局でも死力を尽くしている以上、勝敗と現況が関係ないわけはない。人間であれば好不調の波もある。羽生も昨期は王位、王座を連続失冠した後、立て直して竜王を奪還した。さらに、昨期の佐藤は得意戦法である横歩取りの進化させるだけでなく、振り飛車を試みるなど芸域を広げようとした移行期とも捉えられる。
たった1人の相手と複数の将棋を一定期間に指すタイトル戦では、研究や対策を可能な限り深め、新手や新構想を披露するケースも多い。通常の公式戦と同列では計れない側面もある。
佐藤と6年前の森内には共通点がある。開幕前の取材で、結果が出ていないことを深刻に捉えるような言葉など一切なく、むしろ静かなる自信を感じさせていることだ。揺るぎない信念こそが名人を名人たらしめる。佐藤、羽生。まぎれもない頂上決戦である。
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