ヴォスクオーレ仙台は、フウガドールすみだを相手に開幕3試合目で初勝利を手にした。昨シーズンは仙台サテライトでプレーして、今年からトップ昇格を果たした29番・田中奨にとっては、Fリーグデビュー3試合目での初勝利。終盤に相手の猛攻を受けながら、監督から守備力を期待されてピッチに立っていた田中は試合後、仲間たちの歓喜とスタンドの観客が喜ぶ姿を見ながら、目頭を熱くした。選手にとって、トップの舞台で味わう初勝利は格別だろう。だが田中にとってこの勝利は、もっと大きな意味を持つ、特別なものだった。
あの時、死んでいたらピッチには立てていない
2015年5月4日、田中はピッチに横たわっていた。自陣ゴール前で相手のシュートをブロックするためにスライディングをしたところ、至近距離から強烈なシュートを心臓の位置で受けてしまったのだ。一度は起き上がったものの、2、3歩進んだところで、前のめりに倒れこんで意識をなくした。心肺停止状態だった。
その様子は、フットサルメディアのfutsalEDGEで、彼自身が詳細に記している。当時、関東リーグのfcmmでプレーしていたチームのトレーナーがAED(自動体外式除細動器)を使用して、迅速に対応したことで彼は一命を取り留めた。
「お医者さんにも言われましたが、あの時、死んでしまってもおかしくはなかったですし、生きていなければ、今こうしてお話ししていることはもちろん、今日のピッチにも立てていませんでした。それに、(蘇生が)遅ければ後遺症が残ったり、スポーツをできない体になっていたかもしれません。そういう経験を僕は“させていただいた”と思っていて、あの日、あの時の出来事から、自分自身の考え方が変わりました」
田中はそれから、今、この瞬間を大切に生きるようになったという。
田中は20歳の時に一度、Fリーグを目指していた。バルドラール浦安テルセーロ(3軍相当)に加入して、1年で浦安セグンドに昇格、FリーグU23選抜に選ばれたこともある。だが、家庭の事情で競技を離れることになり、22歳の4月からは、古巣のfcmmに復帰していた。そして、あの事故が起こった。
「FリーグU23選抜では、原辰介選手(ペスカドーラ町田)や栗本博生選手(フウガドールすみだ)ともプレーしたのですが、彼らはトップで活躍している。どこかで悔しい思いがありました。このまま終わるのは嫌だなって。自分も24歳だし挑戦するなら最後だと思って、仙台サテライトのセレクションを受けました」
脱サラして、Fリーグに再挑戦。「とにかく積み重ねです。もちろん、目指すのは日本代表ですし、もっと上のレベルの選手です。だけど、次の練習を全力でやるという意識でやっています。積み重ねていかないと、日本代表も夢物語で終わってしまう。今、この瞬間に何ができるのか。今日の自分は昨日の自分よりもできているのか。そうやって、自分と向き合いながらやっています」。そんな考えを胸に日々の努力を続けてきた結果として、サテライトから1年でトップに上がり、今はFリーグでも出場時間を増やしている。
気になることがある。競技レベルが上がれば上がるほど“あの事故”の怖さが蘇ってきてしまうのではないだろうか。だが、田中は「怖さはない」と即答する。
「それがあったらピッチに立ってはいけないと、事故の翌日から思っていました。今日はパワープレーの守備で長い時間、出ていたし、目の前には(強烈なシュートが武器の)清水和也選手や大薗諒選手もいました。僕は大丈夫ですが、もしかしたら見ている人の方が怖かったかもしれないですね(笑)」
自分が事故に遭ったことで、周囲にはそのことを気遣ってくれる人も多いというが、だからこそ、気を遣わせないために、田中自身が事故を気にしている様子を出すことはない。むしろオープンにしている。
「触れていいのかなという空気感もあるのですが、そこでいじられたりすることが逆に、AEDの重要性だったり、同じような場面に遭遇した時に、助かる人、助けられる人が増えたらいいなと思っています」
実際に、事故のニュースは、フットサル界に限らず大きな話題を集めた。競技者たちがAEDの講習会を受講したり、日頃の練習場所に救命措置ができるAEDが常備されているのか、機能するのかといったことを意識する人たちが増えた。田中の経験は、間違いなく現在のスポーツ界に大きな意味をもたらしたと言える。
心肺停止から生還した奇跡のFリーガー・田中奨は、今この瞬間も、ピッチで戦い続けている。
文・本田好伸(SAL編集部)
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