お釈迦様の誕生日とされる8日、全国のお寺では「花まつり」と呼ばれる行事が行われた。ブッダが生まれた際にとったとされるポーズ、「天上天下唯我独尊」の格好をした仏像に甘茶をかけるのが習わしだ。
お笑い芸人の小籔千豊は、2年前からこの日に合わせて「フラワーフェスティバル」と銘打ち、お釈迦様のカウントダウンイベントを開催してきた。
「幸せになる方法でいったら仏教がダントツ一位」と話す小籔は、その魅力について「偉い人の名前やお経を覚えないといけない、難しいと思うかもしれないが、女性誌の"こういうマインドで生きれば彼氏とうまくいく"とか、"毎日がラクになる"みたいな記事と同じ、それを何百年前から言ってきたかという話。新喜劇の動乱の中で生きてきた僕はストレスが溜まったとき、枕元に置いた禅の教えと空海の本を読む。パッと開いて読んでいるうちに、腹が立っていたのに"このように考えたらどうかな、俺中心で考えてたな、執着しすぎだったな、寝ようか…と、いう気持ちになってくる。悟りを開きたいとか、仏教に何かを押し付けられるとか、そういうことではなく、ちょっと欲を捨てたら気持ちが楽になった」と話す。
また、芸能界随一の仏教通として知られる、笑い飯の哲夫が開催する仏教講座はいつも大盛況だという。「僕はただの仏教マニア。適当なことを言って、仏教というテーマで漫談をさせてもらっているだけ。本当に正しいことはお寺さんでお坊さんの話を聞いてくださいね、と付け加えさせて頂いている」と説明する。
そんな二人の仏教愛について、高野山真言宗功徳院の松島龍戒住職は「私どもの目線から見ても、お二人の意識、信仰心には大変深いものがあるので、本当にご尊敬申し上げている。何より面白く、分かりやすくお伝えいただいていると思うし、義務感や使命感ではなく、仏教を本当に楽しんでいらっしゃるのがすごく伝わってくる。どんなに仏教がいい教えを持っていても、知りたいと皆さんが思わなければ全く用をなさない。それに関してお二人はお坊さん以上の影響力を持っていると思う。仏教の"総代理店"だ」と絶賛。「無欲になるのは難しいことだが、その欲がどう働いているのか、と心を見つめ直して整理整頓し、道順を正しく整えるための合理的な考え方だと思う」と話した。
番組では、そんな哲夫に、わかりやすく仏教の教えを説明してもらった。釈迦の基本的な教えには、「諸行無常」「十二因縁」といったものがある。
まず、諸行無常について哲夫は「平家物語の冒頭で"諸行無常の響あり""驕れる者は久しからず"と使われているように、全てのものはそのまま一定であることはないよ、必ず移ろいゆくんだよということ。人間だって老けていくし、花だって枯れていく。そういうようなことが諸行無常だ。ここに、なぜ移ろいゆくのか、それは実体がないからだ、という諸法無我や、安らかな境地に行きましょうという涅槃寂静と併せて"三法印"、さらに一切皆苦を入れて"四法印"とも言う」と説明する。
哲夫はこうした考え方を「お釈迦様はインドの人だからカレーだ」と表現する。
「全てに実体がないという世界観を、大きい寸胴に入ったカレーのルー、でも鍋は考えないとする。人参、玉ねぎ、芋が溶け込んでいるように、地球や宇宙、世の中の全てが入っていて、無数の小さな"おたま"に僕だったり、机だったり、カメラだったりが掬われて、さっきまで一緒だったものが別々のように見える。しかしこのおたまには底に穴が開いているので、少しずつ鍋に落ちていってしまう。そして空になった時というのが亡くなった時。でも、元々の鍋の中に戻っているだけなので、次に掬われたときはまた別のものになっている。結局はみんな一緒。宗派によって考え方も色々あるが、輪廻というのはこういうことでないかなと思っている。公衆便所でおしっこをしてときに、便器をちょっとだけ汚したとする。それをちゃんと拭く人もいれば、そのまま行ってしまう人もいる。だけど自分の家だったらみんな拭いているはずだ。だから自分の家も公衆の所も同じという感覚にならないといけないということ。人の喜びは自分の喜びだし、人の悲しみは自分の悲しみであるという感覚で、みんな一緒だと思えたら、そこから"慈悲"が生まれてくる」。
この説明について松島住職は「すごく絶妙な説明だと思う。カレーの下の方に沈む役割の人もいれば上の方にいる役割の人もいる。役割はそれぞれあっていい。現世に住んでいると、諸行無常の世界はあまりに大きすぎて感じにくい。仏教ではこの世は仮の世界だと考えていて、時間的にも空間的にも、宇宙みたいに広い仏様の世界からたまたま"おたま"に掬われたように、一瞬この世に生まれてきただけのはずなのに、自分の命がすごく長く続くように勘違いしてしまう。自分の命より桜の命の方が短いと比較してしまう。全体を見れば、つまりカレーの世界では、自分の命も桜の命も大して変わらない、同じように儚い」と補足した。
「十二因縁」とは、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死という苦が生じるプロセスを12の因果関係で表したものだ。
「お釈迦様が瞑想して悟ったいくつかのことがある。まず中道といって、両極端の否定だ。エロいことばっかりやってもいけないし、エロいことをやらなさ過ぎてもダメ。ちょうどいい所をいきましょうという中道というものがある。だから欲深さも中道ということではないだろうか。欲がありすぎてもいけないし、なさすぎてもいけない。次に縁起というものがある。因縁と言われる、全てに原因があって結果があり、その結果がまた原因になって、また結果が生まれる。いわば全ての事象はつながっているということ。たとえば小さい頃はシャンプーが嫌だったり、怖かったりする。そこでシャンプーが嫌な原因を遡る。目をつぶったら泡が目に入ってこないが、後ろにおばけがいたら怖いなと思う。でも、それはおばけの存在を信じているから。そして、それは賢い人におばけなんていないと教えてもらっていないから。そうやって大元を滅ぼしていくという理屈だ。老死、生…と遡っていくと、無明に行きつく。これは"知らない"ということ。ちょうど同じ時期、ギリシャではソクラテスがいて、無知の知を説いたと言われている。このとき、インドでは知らないことが苦しみの根源なんだということをお釈迦様が言ったということ」。
松島住職も「欲は正しく使うということだと思う。仏教は多面性に気付かせる教えでもある。やはり偏らないことが大事になってくると思う。ネットでも良い・悪いでやっていると際限ない争いの構図になってしまう。良い・悪いのどちらかでは決してなく、悪いことだが、いい部分もある。そして第3の考え方も見出してあげるのも仏教の役割だという気がする」と説明した。哲夫は「こういうことを知っておくと、SNSも立体的に見えてくる。苦情を言われても、その人のバックグラウンドが立体的に見えたら、まあ許そうかなとなる」と話していた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)