「名前はシャモリ。15歳。ここで生まれた。お母さんが生きている限り続けなければならない。お母さんは私以外、頼る人がいないから…」。
バングラデシュの首都ダッカから車で3時間の街・タンガイル。ブローテルと呼ばれる巨大売春街で”世襲の売春婦”として生きていく運命を背負った少女たちを救いたいと、20年にわたって活動を続けてきた一人の日本人がいる。「ババ」(ベンガル語で"お父さん")。そう子どもたちに呼ばれている奈賀悟さん(58)だ。
■何世紀も続く「世襲」という地獄
新聞記者だった奈賀さんは20年前に売春街の存在を知り、地元NGOとともにセックスワーカーの母親から子どもを無償で預かり売春街から抜け出すきっかけを与える「セーフホーム」の立ち上げに携わった。以来、日本から支援者を募るなどして、年に2度は現地を訪れている。
久しぶりに会いに来てくれた”ババ”の周りを離れようとしない女の子たち。彼女たちの母親も、全員がセックスワーカーだ。「ここでは食べ物も、寝るところも、学費も与えられる。でも一つだけ足りないものがあるんだよね。それが親の愛情なんだよな」。
売春行為はイスラム法で重罪とされているが、およそ1000人のセックスワーカーたちが暮らすブローテルだけは警察のライセンスが与えられ、成人女性に限って売春が認められている。しかし実際のところ、働く女性の多くが18歳未満の少女だ。
「人によりけりだけど、30半ばには客足が遠のくからね。自分の老後って不安でしょ?だから自分の子どもをセックスワーカーにするわけ。稼がせて、その上がりを管理する。それしか生きていく術がないし、自分も親にそうされたしね」(奈賀さん)。
何世紀も続く、世襲という地獄から抜け出すのは簡単ではない。娘に売春させているという母親は「娘に生活の面倒をみてもらってますよ。娘は毎日100タカ(約130円)のお金を渡してくれます。甘いお菓子を買います」と話す。
■文字が読めず、違法なホルモン剤を信じて飲んでいる女性も
売春街には大麻や覚せい剤だけでなく、違法なホルモン剤も出回る。「衝撃だったのは、14歳だったシャハナという女の子。彼女はホルモン剤を注射され、胸を大きくさせられていた。ひどい声で」(奈賀さん)。ふくよかな女性の方が男性に好まれるからと、母親が娘に無理やり注射を打っていたというのだ。
彼女たちの"元締め"だという女性は「若い子の場合はビタミン剤などを飲ませることがある。部屋の中では、だれが何をしようと自由なんだ」と主張する。
あるセックスワーカーの女性が「太るためのビタミン剤」だとして見せてくれた錠剤を調べてみると、それは数年前に無許可での販売が禁止された、ステロイド系のホルモン剤だった。副作用によってホルモンバランスが崩れ、食欲は増すとされているが、体調を壊して20代で亡くなった人もいるというものだった。学校に通えなかった女性たちの多くは、文字を読むこともできないのだ。
■「少しでも力を尽くしたい」と新聞社を早期退職
「スラムに閉じ込めた女性たちを男たちが搾取しているわけ。そういう構図なんだよ。そんなことあっていいはずがない。だから子どもたちをセックスワーカーに戻さないよう、少しでも力を尽くしたいと思っている」。子どもたちと過ごす時間を増やすため、奈賀さんは新聞社を早期退職、フリーのジャーナリストとして雑誌への寄稿を続け、収入の一部を活動資金に充てている。
現在、ホームには50人ほどの子どもたちが生活する。勉強だけでなく、ダンスや楽器も教えており、プロの踊り子として活躍する卒業生もいる。ホームを卒業した子どもは20年で200人を超えた。
そのうちの一人で、看護師として働きながら4歳の娘を育てる女性は「お母さんと同じ道を辿らなかったのは、小さい頃からホームで暮らすことができたからです。そこで必死に勉強して、看護師になれました。人々を助けることのできるこの仕事が好きです。奈賀さんのおかげです」と、感謝の言葉を口にする。子どもについて「勉強して医者になってほしいです」と語る彼女に「勉強させないとダメですよね」と話しかけると、「もちろん。たっぷり勉強させますよ」と笑顔で答えた。
■避妊用ピルを服用する15歳の少女…それでも「母親を恨んではいない」
それでも、すべての少女を救い出せるわけではない。「子どもたちは元気が良いし、明るく見えるけど、実際は違うのよ。すごくさみしがり屋で、心にすごい傷を持っているのね。そりゃ子どもの頃、母親が客をとっているベッドの下で寝ているわけじゃない。みんな母親が何をしているかも知っているわけよ。そんな環境で育った子たちだから、母親を独占したいわけ」(奈賀さん)。
15歳のシャモリは4年前にホームから逃げ出した。親の愛を求め、売春街に戻ってしまったのだ。避妊用ピル「フェミコン」を服用、1日に2、3人の客をとるというシャモリ。1回500タカ(約650円)だという。「客がお金さえたくさん払ってくれれば、コンドームなしセックスさせる。だからピルを飲んでるんだよ」。
母親を恨むことはないのかと尋ねると、「ないよ。お母さんはいい人で、悪い人ではない。たしかにお母さんのために私はここで働いているけど、恨んではいない」と話した。
■"お前には父親がいるんだから"母の"嘘"を信じて暮らす子ども
8年前にホームにやってたボイシャキは、取材スタッフの質問に「お父さんは正直、なにやっているか知らない。なんかの商売かも。大体1か月に1回くらいで会いに来る。お母さんはもっと来る。何をしているかはわからないが、親戚のおじさんの家に住んでいる」と教えてくれた。
しかし奈賀さんは「ボイシャキは自己防衛したな」と苦笑する。「”ババ”って聞いた瞬間わかった、あいつに父親はいないから。フィクションで自分を守ったなって」。ホームの関係者に確認しても、父親が会いに来たことは一度もないという。
「母親が"お前には父親がいるんだから、まともな子なんだ"って言ってるだけ。おじさんと暮らしているというのもそう。でも、ボイシャキはその嘘を見抜いてるのかもしれないよ。嘘を信じたいってことかもしれない。小さな子って夢見る世界に生きているから、それを崩すようなことは言わないし、言ってほしくない…」(奈賀さん)。
実はこの2週間前、母親がボイシャキを売春街へ連れ帰ろうとした事件も起きていたという。
■「お母さんは来なくていい。私のことを大切にしてくれないから…」
イスラム教徒にとっての休日にあたる金曜日。ホームでは週に一度の母親との面会日だ。母親の一人は「会えてうれしいに決まってるでしょ」と話す。しかし、全ての子どもが母親に会えるわけではなく、娘を預けたまま二度と会いに来ないケースもあるという。
13歳のタマンナは、もう2年以上も母が会いに来ていない。お母さんに会いたいかとの質問に、泣きながら「来なくていい。私のことを大切にしてくれないから…」と苦しい胸の内を語った。
「魂がいつもむき出しの状態なんだよ。それにちょっとでも触れると、ワーッて爆発しちゃう。普段は笑顔だけど、夜はみんな泣いているしね。タマンナも月に一回くらい、よく泣くんだ。やっぱり愛されたいと思う気持ちと、愛されていないかもと思う気持ちとがあるから」。この日、タマンナが奈賀さんの傍から離れることはなかった。
■俺は父親になっているのかな。…なりたいとは思ってる
日本にいる奈賀さんの元には、バングラデシュからのメッセージが届く。「この前、タマンナの母親が来たんだよ。2年ぶりに。最初は嬉しそうだったんだけど、突然泣き出して、ワーッて走り出しちゃって。そして母親に"このまま連れて行ってくれ""お母さんと一緒に暮らしたい"と。そしたら母親は"それはできない"と。連れて帰っても養う余裕がないんだよ。自分と同じ道を辿らせたくないんだ。でも、タマンナとしては拒絶されたと思ったんだな。例によって、泣いて泣いて泣いて泣いて…」。
「お母さんと会えて楽しかった?」タマンナにそう尋ねると、「うん。遊園地で、船の乗り物にも乗ったし、メリーゴーランドにも乗ったよ」と笑顔を見せた。しかし、「また会いに来て欲しい?」との質問には、「来なくていい」と話し、顔を覆って泣き出した。母親はあの日以来、一度も会いに来てはいない。
今年3月、奈賀さんが4か月ぶりに訪れたホームからは、2人の子どもが姿を消していた。「みんな母親はいるけど、父親という存在を知らないから。そういった意味で、俺は父親になっているのかな。…なりたいとは思ってる」。