国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」で持ち上がった騒動。慰安婦問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、タブーとされがちなテーマを扱った作品であることが拡散した結果、愛知県や運営側にテロ予告が届くようになり、3日には大村知事と津田大介芸術監督が相談の上、来場者らの安全が確保できないと判断、展示の中止を決定した。

 しかし、企画の実行委員会側も会見を開き「一方的中止に抗議する。私たちはあくまで本展を会期末まで継続することを強く希望する。一方的な中止決定に対しては法的対抗手段を検討していることを申し添える」(岩崎貞明氏)などとして異議を唱え、これに賛同する意見も少なくない。さらに5日には憲法の定める「表現の自由」について、大村知事と名古屋市の河村たかし市長との間で意見が真っ向から対立するなど、議論はさらに広がりを見せている。

 一連の問題について、ジャーナリストの堀潤氏は「一連の動きを追っていると、表現の自由と検閲の問題や戦争の加害性に向き合うこと以前に、事前準備や組織運営のあり方に大きな課題があったことが浮き彫りになってちます。直ちに、開かれた議論の場をあいトレ主催で用意するべきと切に思いますし、放ったらかしになってしまったアーティストの皆さんの声にも耳を傾けたいし、左右の対論から普遍的テーマへの昇華も目指したいですね」とした上で、別の視点から考えてみることの必要性も指摘する。
 

 「表現の自由」をめぐる議論、公金のあるべき使い途についての議論など、様々な切り口で議論がなされていますが、結局のところ、私たちの社会は戦争の加害性や、加害責任について考えるのが苦手ですよね、ということは確実に言えるのではないでしょうか。

 今回の問題が最初に報じられた時、僕自身はどういう情報発信をしようかと考えた末にツイートし、2000くらいシェアされたのが、ドイツ・ベルリンを訪ねたときのことを書いたものでした。

 街の中心部にある、かつてゲシュタポの本部だった建物が今、ナチスが1933年に政権を獲得して以来の様々なメディア戦略や非人道的な行為について振り返る資料館になっています。無料で観ることができ、SNSのシェアも含めて写真撮影が可能になっています。

 よく調べたなあと感心したのが、群衆が"ナチ式敬礼"をしている写真の中に写っている、たった一人だけ、それをしないでいる人物を探し出し、あのような空気の中でも意思を貫くのは容易ではなかったはずだという展示がしてありました。

 僕たちも、普段の実生活の中で周りの空気に流され、思わず自分の考えとは違うことを言ってしまったり、沈黙してしまったり、ということがありますよね。果たして自分はこういうときに自分の姿勢を貫けるだろうか。そんな問いかけがなされている。これはナチスや戦争の歴史考えるだけでなくて、過去に起きたことこそが今であり、未来なのだ、というメッセージでしょうね。

 人間の心というものは決して強くないので、気を抜くとすぐに引っ張られ、差別やヒエラルキーのようなものを生んでしまいがちです。そしてそれは今もいろいろなところで起きている。だからドイツとしては、なぜ間違いを犯してしまったか、そのプロセスを考えることこそが財産であり、税金を使って、それを映し出すことが普遍的な価値であると考えているからでしょう。さらに言えば、それはドイツという国の信頼のために過去を背負うという行いであって、愛国的なものだと思います。やはり歴史を知り、向き合い、検証する。次世代につなげることが尊い作業だと、僕はその姿勢に共感したものでした。

 「でも、それって敗戦国だから難しいでしょう」とか、「歴史修正だ」という意見ももらいましたが、では、戦勝国はどうでしょうか。

 アメリカ・カリフォルニアに砂漠の真ん中にある、各地の日系人を連行してきたマンザナー強制収容所の跡地が、今は当時の建物も含めて国立の施設として整備され、無料で公開されています。当時、非常に多くの日本人が、しかも太平洋戦争の開戦と同時に収容されていったのですから、いわばタイミングを待っていた、とも言えるわけですね。ひとりひとりナンバーを振られ、写真を撮られて。私たち米国人は、そのようにして日系人を差別したんだと。そのようにして、"レイシズムのルーツという大きなテーマについて問いかけています。

 どういう人が観覧に来るのかなと思って見ていたら、日系人の方が「うちの祖父がここに入っていたと聞いていますが、どのような経緯で収容されたのか、本人はすでに亡くなっていてわかりません」と職員に尋ねていました。するとすぐにデータベースで調べもらえて、「おそらくおじいさんはこの方じゃないですか」と、足跡を辿ることができたようでした。

 翻って、日本での強制労働に従事させられた、あるいは軍に連行されたとされる慰安婦の方々について、私たちの国は加害側としてデータベースを整備しているかといえば、それはない。そもそも書類を捨てたり焼いたりしていますしね。もしもそういうものがきちんと揃っていれば、当事者やその家族、後の世代の感情は違ったと思うんです。反省しているとかではなく、なぜそういうことが起きたかのかに向き合えないことが悲しいですよね。当時の人たちに言ってやりたいですよ。なんで燃やしたんですか、そんなことをしたから、私たちの世代は被害側も加害側もいまだに苛まれているんですよと。70年以上経っても、事実がわからないまま謝れと言われ、あったのかなかったで左右が撃ち合い、分断している…。

 だからこそ、せめて今の社会ではデータを残しておきましょうと思うんですが、残念ながら最近も裁判所が資料を破棄しました、原発事故の関係自治体の資料が保管期限が過ぎたからと捨てられていました、霞が関では公文書が改ざんされたり、破棄されたりということが相次いでいます。今生きている私たちが、そうやって事実から目を背けるようなことをしていけば、将来に禍根を残すことになると思います。

 あいちトリエンナーレの問題では、名古屋市の河村たかし市長が「日本人を貶めた」という主旨の発言をして論争に発展していますが、が、左右ともに、今も起きている戦争や差別という普遍的なテーマではなく、過去の責任の話としてしか見ていない気がします。

 子どもたちを連れてマンザナー強制収容所跡地を訪れていた人は、「残念ながら差別というものは無くならない。現に起きている。だからこそ、どんなことが起きたのか、どう対処していけばいいか。それを学んでおく必要があるんだ」と言っていました。戦争そのものや加害性について人類の普遍的なテーマとして向き合うようにすれば、"私たちは酷い民族だ"というような話ではなく、怖さを語ることができると思います。

 この夏も、今回の話題も含め、他の話題によって、あの戦争について考える機会や報道が一層減っているように思います。あいちトリエンナーレの展示内容や運営方針のあり方以前に、根底にはそうしたことについて日本人が考えないという問題が横たわっているように思います。
 

■プロフィール

1977年生まれ。ジャーナリスト・キャスター。NPO法人「8bitNews」代表。早稲田大学グローバル科学知融合研究所招聘研究員。立教大学卒業後の2001年、アナウンサーとしてNHK入局。岡山放送局、東京アナウンス室を経て2013 年4月、フリーに。現在、AbemaTV『AbemaPrime』(水曜レギュラー)などに出演中。

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