「私は15年以上、長崎の原爆報道に携わってきました。その間、多くの被爆者を取材し、多くの被爆者が亡くなっていきました。山口仙二さん、片岡津代さん、谷口稜曄さん…核兵器をなくしてほしい、そう願う被爆者は皆、若者たちを希望に例えました。令和を生きる君へ。どんなに時代が変わっても、伝え続けたい思いがあります」。(長崎文化放送・志久弘樹ディレクター)
■「みんなに伝えてくるけん」祖母の思いを胸に
昭和20年8月6日午前8時15分、広島に落とされた一発の原子爆弾はおよそ14万人の命を奪った。そして3日後の8月9日午前11時2分、長崎に落とされた2発目の原子爆弾はおよそ7万4000人の命を奪い、7万5000人を傷つけた。
核兵器の廃絶を求める署名を国連に届ける「高校生平和大使」の21代目、被爆3世の山西咲和さん(17)は、平和大使に応募し選ばれたのを機に、初めて祖母に被爆体験を聞き、スマートフォンで録音した。
「おばあちゃんが生まれた時は戦争は始まっとったと?」
「もう生まれた時始まっとったですね。日本はずっと戦争しよったですね。日本は戦争に勝つと子どもの頃から思ってたんですね。日清戦争日露戦争と勝ってきとったから。馬鹿みたいですね。妙に信じてたんですね」。
「中学校1年生やもんね」。
「原子爆弾と言わないで、ピカドンと言いよったです、恨めしく。郵便局のお使いに行ってたんですよ。ピカッとしてから閃光がきて、ガーッときたんですね。家も何でもみんな壊れてしまう。郵便局の人から“伏せ!”って言われて、こう潜り込んどったんです。めちゃくちゃでした。ガラスも何もね。起き上がりきらん人もいたしね、動けん人もいたんですけど、助けなかったです。自分が生きることに 精一杯だったから」。
「おばあちゃんのお友達とかいっぱい亡くなられた?」
「いっぱい亡くなったですね。クラス半分が亡くなったです。誰が亡くなったって分かってくるんです。友達が、だんだん亡くなっていくのが分かって、消息が分かったら、毎日のように追悼式がありよったんです。慰霊祭が。寂しかったですね、あの頃は。戦争は嫌だ、と思いましたね。戦争反対と思いよったです。すごく思いよったです」
「つらいこと思い出させてごめんね。話してくれてありがとう」
「それはもう当たり前のことよ」
「聞いた話を、スイスでスピーチしてくるけん。みんなに伝えてくるけん」
■各国の大使や外交官らを前に英語でスピーチ
咲和さんは祖母の話を英訳し、機内や乗り継ぎの空港でも練習した。日本を出ておよそ20時間後、ジュネーブ空港に到着。日本政府主催の意見交換会では、20か国以上、およそ50人の大使や外交官らを前に英語でスピーチした。
「私は祖母の体験について話します。私の祖母は13歳の時に爆心地から3.5キロメートルの場所で被爆しました。突然あたりがピカッと光り、男性の“伏せろ!”という声が聞こえ、慌てて机の下に潜り込むと大きな爆音が響き渡りました。しばらくして辺りを見回すとさっきまでの風景とはガラリと変わっていました。家に帰ろうと走り出しましたが、そこで祖母はけがを負って逃げて来るたくさんの人を見たのです。皮膚がただれている人、眼球が飛び出している人、首のない赤ん坊を背負ったまま動かない人」。
「毎日毎日友達が死んでいって悲しかった。とてもさびしかったと、祖母は言っていました。話を聞く際、祖母は何度も、戦争なんてしたらいかん。絶対だめよ。二度とあんな思いはしたくない、と繰り返していました。言葉が出ませんでした。私は73年の前ように、多くの罪なき人々が苦しめられることが起きてほしくはありません。長崎を最後の被爆地にするために、私は核兵器廃絶を訴え続けます」。
会場に拍手が鳴り響き、「山西さんが言っていたように、私も“言葉が出ない”。将来どのように核兵器を廃絶するか検討したい」(オーストリア政府関係者)、「現時点で核兵器は非常に複雑な国際安全保障の重要な一部です。しかし私は最終的には国際社会が将来、核兵器を廃絶する結論を導き出すことが必要だと思っています」(ポーランド政府関係者)と、共感の声も聞かれた。
■思いは今も…歴代の平和大使たち
核兵器の脅威を、悲惨さを、その体験を語ることのできる被爆者のいない時代が近づいている。そんな中にあって活動する平和大使たちについて、2013年に82歳で亡くなった被爆者の山口仙二さんは、「次々に若い人たちが受け継いでね。広島長崎を繰り返させないようにしようと。希望ですねまさに」と語っていた。
1998年のインドとパキスタンの相次ぐ核実験をきっかけに始まった高校生平和大使。5代目の岡山史興さんはお父さんになった。戦後70年の節目に、「次の70年に何を残すか」をコンセプトにしたウェブメディアを立ち上げ、被爆者の声を伝える仕組みも作っている。
「被爆っていう出来事、原爆っていう出来事が長崎広島だけのものじゃなくて、日本のどこにいても、あるいは世界とかにいても関わりがある出来事なんだっていうのを身近に感じてもらえるような仕組みを作りたい」(岡山さん)。
9代目の大川史織さんは、戦時中、およそ2万人の日本兵が命を落とし、自らも3年間移り住んだマーシャル諸島を舞台にした反戦ドキュメンタリー映画を作った。
「高校生の時にあの体験ができなかったら今この映画もないと思いますし、考え続ける。何か行動し続けるということをやれていたかどうかというと、そういう人生じゃなかったかなと思います。全然終わってないですね。続いているものという感覚があります」。
16代目の広瀬ないるさんの祖父・方人さんは、原爆の語り部。韓国や中国と絆を紡ぐ活動に尽くした。2016年に85歳で亡くなった方人さんは「国民と国民が交流し合って、友好の波が広がっていくというのは実感していますよ」と語っていた。そんな祖父の思いを受け継ぐないるさんは、「私も韓国の友達が何人かいて、韓国大好きですし、中国の友達もいて、中国のことも大好きですし、政治的な問題っていうのを越えられるのって、やっぱり結局はひとりひとりの、特に未来ある若者たちが仲良くなっていくこと、それが一番の近道だなあって、そう思いますね」。
17代目の小栁雅樹さんはジュネーブ軍縮会議で初めてスピーチした平和大使だ。「微力だったけど、無力じゃなかったなって、今振り返って思いますね。…きっと無力ではなかった」。
■「平和について考えるワークショップをやってみたい」
「おばあちゃんはさ、アメリカの人がさ、ピカドン落としたでしょ。おばあちゃんはさ、アメリカの人がさ憎いとか、ある?」
「もちろんありますよ。だけど戦争が終わったら友好気分でね、平和で。特別に憎むよりも、今の日本をどうしようかという気持ちが強かったですね」。
咲和さんの名前は、春を迎えて、花が咲くように生まれた我が子に、“ブルーミングピース”、平和の花を咲かせてほしいという願いを込めて両親が名付けた。春になり、志す東京の大学に進学できたら、平和について考えるワークショップを開きたいと考えている。そして将来は国の内外で、たくさんの子どもたちの平和教育に携わる夢を描いている。
「学校で対話っていうのを大切にするワークショップをやってるんですけど、まず相手の意見を否定せずに、まず自分で全部受け入れて、そこからまたさらに考えを発展していくという形なので、討論だったら自分の考えが変わったら負けですけど、対話だったら自分の考えが変わる方が勝ちっていう風にとらえられるかなって思って。それを通してだったら、いざこざとかなく、平和についてみんなが考えられる時間ができるんじゃないかなと思ったので、国籍とか年齢とかに関わらず、みんなが平和について考えられるようなワークショップを開きたいって思います」。
そして、「東京オリンピックの閉会式が8月9日って知ってましたか?」。そんな質問をSNSで投げかけていた。
11月24日、ローマ教皇として38年ぶりに日本を訪問したフランシスコ教皇は、爆心地から世界へ、「核兵器の廃絶は可能であり必要。核兵器は国際・国家の安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない」と訴え、「そのためには今の世界を覆う不信の流れを打ち壊す相互の信頼が必要」と呼び掛けた。
令和を生きる広島長崎ピースメッセンジャーたちは、今も国の内外で、微力だけど決して無力ではない、「信頼」という平和の花を咲かせ続けている。