私は阿久津友紀。HTB北海道テレビで報道部の記者や情報番組のディレクターを務め、15年以上前からは乳がん検診を受けるよう呼びかける「ピンクリボン運動」に取り組む女性たちを取材してきました。その多くが乳がん患者でした。「これは私の勲章なんです。傷はこのような感じで…」と、乳房に残る傷を見せてくれた柴田直美さんもその一人です。39歳で手術し、2人の男の子を育てる姿を尊敬していました。
・【映像】阿久津ディレクターの乳がん治療を追ったドキュメンタリー
日本人女性の乳がんになる確率は11人に1人といわれていますが、その“11人に1人”が、私でした。「健康診断で言う?と思ったけど、ああ、来ちゃったって」。乳腺エコーの結果、両側充実性病変の疑い、両側嚢胞の疑い、左乳管拡張の疑いを指摘されました。去年7月、報道フロアで、同僚たちに「乳がんと宣告されました。明日から休みまして、明後日手術をすることになりました」と伝えました。
■「全摘しよう」…手術前日に人工乳房が使用中止に
7月25日、手術前日。主治医に「シリコンパッドのインプラントあるでしょ?アメリカのFDA(食品医薬品局)がね、今日をもって、もう出さないって。全部回収するって」と突然、言われました。日本で一種類だけ保険が適用されていた人工乳房。しかし、別のがんを誘発する危険性が指摘されたのです。「全摘して、そのまま?」と聞き返す私に、主治医は「温存しようと思えばできるけど…」。
「生きていればいいですか?」そう夫に尋ねると、「どちらかといえば、私はこれから生きる年数を考えた方がいいかなと思います」。医師も「私もそう思う。お母さんも(乳がんを)やってるし、しかもあなたは同時両側だもん。皮下乳腺全摘なら乳首は助けられるから」。乳房を再建することはできなくなりました。涙が溢れ、「全摘しよう」と決断した私を、医師は「乳房全摘ではなくて、乳腺全摘。これでいける」と励ましてくれました。
手術前夜。私の胸には線が引かれていました。「このへん切るよ、みたいな…。これが“板”になるんでしょ…。板だよ、板…」。眠れない夜。翌日、「いってらっしゃい!」と声をかける夫と固い握手を交わし、歩いて手術室へ入りました。乳がんは、腫瘍の大きさとがんの性質、そして脇のリンパ節への転移があるかないかがその後の治療を大きく左右します。まず右胸、そして左胸。私の乳腺を、がん細胞と一緒に丸ごと取り除きます。
手術後、主治医が夫に「一番先に転移がいくリンパですが、転移はなかった」と結果を伝えました。「ヒロちゃんいる…?」と酸素マスクをつけたまま、意識がもうろうとする中、夫は私の手を握りながら「ごくろう、ごくろう。リンパとか、問題ないってよ」と教えてくれました。私は「ホント…よかった」と号泣してしまいました。
手術翌日。目が覚めると、すぐに食事でした。「生きてる!」と思った瞬間です。腕が上がりにくくならないよう、すぐにリハビリも始まりました。「傷、見ました?」と看護師に聞かれ、恐る恐る見てみると、「思ったより(胸が)ある。ちょっとびっくりした!」。医師に感謝しました。
入院を通して、多くの患者さんとの出会いもありました。そのうちの一人は佐藤恵理さん。消灯時間まで、ともに乳がんと向き合う仲間との会話は尽きませんでした。
■「ワイヤー入りのブラジャーはすべて捨てました」
8月4日、手術から9日。予定より早く退院することができました。しかし手術した胸は岩盤のように固くなっていました。そして、指先には痺れもありました。今後の治療法を決めるのに大切な病理検査の結果が出るまで2週間、もやもやした気分が続きました。
「両方とも早期がんで、乳腺をがんが生きないように取りまして、リンパも確かめて両方とも転移はなかった。女性ホルモン(の働き)を抑えるような治療でいいんじゃないでしょうか」。病理検査の結果、抗がん剤よりも、ホルモン治療が効くとの診断。卵巣の働きを抑える注射と飲み薬を組み合わせることになりました。ホルモン治療の費用は毎回3万円を超えます。また、ホルモン治療は、子宮がんなどのリスクを高めます。卵巣がんにも注意が必要なため、婦人科にも通い、卵巣まで調べることになりました。
そして、これまでのワイヤー入りのブラジャーはすべて捨てました。乳がん患者にあわせてつくられたブラジャーは前開きで縫い目もあまりなく、傷に当たらないような凝ったつくりをされている印象があります。また、胸のふくらみを補うためのパッドも必要になりました。職場に復帰したのは1カ月後。あっという間に日常に戻されました。
手術から4カ月後が経った11月22日。一緒に入院していた佐藤さんに会いました。3週間に1度、抗がん剤の点滴を受けています。「えりちゃん、吐き気とかないの?」「全然ない。吐き気なんて一回もない。毎日がおなかすいてる」と笑顔。「今日入れて5回目。3月13日に最後。それで生存率を上げられるのであれば、やるよね。少しでも確率上げたいしね」。
実は佐藤さんは、特急列車で4時間も離れた釧路から札幌の病院に通っています。自宅にお邪魔すると、息子の隼人くん(9)が帰りを待っていました。「心配だよ、だっていつ倒れるかわかんないじゃん。いつステージが上がるかだって、わかんないよ」と隼人くん。
一息ついて、かつらを取る佐藤さん。抗がん剤の影響で、髪は抜けていました。「再発がやっぱり怖い。遠隔転移が怖いよ。しっかり落ちたっていうデータが出ればいいんだけどね」。感染症にかかると抗がん剤が打てなくなるため、隼人くんの学校行事も見に行くことはできなかったといいます。「来年は大丈夫でしょう」「それまで生きてれば」「生きてる生きてる。卒業式も生きてる」。
■「死ぬほど皆さんの私生活を撮らせてもらったわけじゃないですか」
私は乳がんに罹ったことを母に伝えていませんでした。父は、48歳という若さで胃がんでなくなりました。女手ひとつで私と妹を育ててくれました母も、乳がんで左胸を失っています。
帰省し、「言わなきゃいけないことがあって。私、乳がんの手術をしまして」と切り出すと、母は「え?乳がん?嫌だ。やっぱり塊だった?」と驚きを隠せない様子でした。「両方とも。悪性。塊だった。でも両方ともステージ1で終わって、先生は“ハッピーじゃん”って。お母さんには手術が終わって検査の結果が出るまで言わない方がいいって言われたから」。ここで母に泣かれたら、私もつらかった。
手術から5カ月。12月26日、柴田さんと会う日です。顔を見るなり、涙が溢れました。柴田さんは「関節痛くない? 朝動かないよね。寝れる?(私はもう)12年(過ぎた)。もう少したったら笑っていれるから大丈夫だ!」と私を励ましてくれました。
取材者として、「死ぬほど皆さんの私生活を撮らせてもらったわけじゃないですか。お家にも行ったし、嫌な事も、つらいこともたくさん聞いたのに…」と涙ながらに語る私に、柴田さんは「なんもつらかったことなんかないよ。感謝もしてるし。取り上げてもらったからさ、今こうやって活動できてるし」と、再び温かい言葉をかけてくれました。
■「悲観せず、望みを持ってがんと生きていく」YouTubeやブログで発信、イベント登壇も
私は自分に起きた出来事をYouTubeやブログなどで発信し始めました。朝、起こしに来た夫に「無理…痛い。痛いよ」とほぼ毎朝あるやり取りや、乳房に残る傷跡にテープを貼る様子なども動画で公開しました。それを見た全国の方々から手紙が届きます。中には「急きょ“両胸全摘”と言い渡されたのがクリスマスイブでした。その夜、子どもの枕元にサンタとしてプレゼントを置いている自分はなんだかシュールでした…。仕事に戻れる保証はありません」と不安な胸中を吐露するものもありました。
がん患者のためのヨガ教室にも通い始めました。インストラクターの女性も乳がん患者です。この日、集まった8人で様々な不安を語り合いました。
「生活の基盤が一気に失われるって怖いですよね。再就職しようって思っても、やっぱり治療って平日なんですよね」
「面接で“病気をしたことがあって、右側で重い物をあんまり持ちたくないんですよね”って言うと、“あ、そうですか“って言うんですけど、不合格っていう」
「お母さんが乳がんだってわかったら恥ずかしいって言われた」
「親が隠してきた。世間から守るためでもあるので責めてるわけじゃないんですけど、ずっと苦しくて。苦しくて。知らないことが偏見になるから」
「病気になることが許されない社会なのかな。誰にでもなる可能性があるから、せめて言える環境にはなってほしいな」
私は街でのイベントにも登壇し、がん治療の体験を語り続けています。「悲観せず、望みを持ってがんと生きていく時代だということを報道の中でもたくさんお届けしていこうと」。
今年2月には、母と検診に行きました。同じ病院で手術をした母、まさか一緒に行くことになるとは思ってもいませんでした。「平成18年。4月で14年ですね。肺もきれい、右のお乳も大丈夫」。主治医は母の経過に太鼓判を押しました。母は手術後10年ほどで治療を終えましたが、私はこれからです。「10年見なきゃいけないやつですですか…」「そりゃそうです」。現実が突きつけられます。
そんな母と二人で温泉に入った時のこと。「お母さん、気にせずにお風呂入りますよね。私は無理ですねえ」と話かけると、「きれい。どうってことないじゃん」とズバっと私の不安を取り去りました。母は私の希望。母より先には、死ねません。(北海道テレビ放送制作 テレメンタリー『おっぱい2つとってみた~46歳両側乳がん~』より)