「今日のメニューは肉じゃがです。あとは思い付きで。なおちゃんはキノコが食べれない、エビも食べれない。あとゆーちゃんは見たことないもの食べないし。面倒くさいんですよね、何でも食べないから」
そうつぶやきながらキッチンに立ち、家族4人分の晩ごはんを作るのは、鈴木家の長男・智博さん(21)。ここ1年でめきめきと料理の腕を上げ、父の高利さん(54)も「すごいね。最近ずっとお汁も付いてるからね。おらではぜってえ無理」と感心する。
高利さんに「ご飯カンカンして」と言われた奈桜さん(19)は、白米を仏壇に供え手を合わせる。次女の柚葉ちゃんは「ママのケーキ。亡くなったから。大切にしてる」とスマートフォンの画面を見せる。
おじいちゃん、おばあちゃん、パパとママと3人の子どもたち。7人家族が4人になって10年が過ぎた。いつもと同じ、ごく普通のあの日。大好きだった家族に突然会えなくなった。それぞれの思いを抱えて、それでも震災と向き合い生きてきた家族がいる。
■「どっち選ぶっていったら、子どもたち選ぶしかねえっちゃ」
宮城県女川町は豊かな漁場を持つ海の町。高利さんは漁師になって33年、カキの養殖とメロウド漁が主な仕事だ。
町の中心部から車で15分ほど走ると、震災前に暮らしていた尾浦地区がある。「うちがあって隣があって、あって、あって、ここさもあったんだから。道路を挟んでまた向こうにあったの」と、高利さんはかつての自宅跡を指差す。
のどかな漁村に奈良県から嫁いだ妻・智子さん(享年39)。魚もさばけば、漁船にも乗る。明るくて、料理上手。あの日も高利さんは弁当を持ってメロウド漁に出ていた。
「(地震の後)急いで上がってきて家に入って。おじいさんが外の庭にいて、おっかあ(智子さん)はひな祭りがぐちゃぐちゃになってたから片付けてたんだったかな。おばあさんは顔見なかった。そん時は」
これが、家族を見た最後だった。港に置いてあったフォークリフトを坂の上に避難させた高利さん。自宅は波にのまれてもう見えなかった。
「そっちを捜しに行けば子どもたちがさ。小せえからそっちの面倒見る人いねえし。やっぱどっち選ぶっていったら、子どもたち選ぶしかねえっちゃ。生きてる方が大事だもの」
子どもたちは町の中心部の小学校と保育所にいて無事だったが、会えたのは1週間後だった。奈桜さんは「お母さんとかいる人は待ってて、(来たら)みんなバーッと行くんですけど、『ちょっと話すことあるんだ』みたいな」と当時を振り返る。高利さんは智子さんたちのことを正直に子どもたちに話した。
「『実は戻ってこねえから』『多分流されたから』っつってさ。隠しようねえもん。どっかに買い物に行ってたとかって言うわけにはいかないっちゃ。それからは子どもたちも追及しなかったね」
■「きょうが特別な日っていうわけでもねえし」
2014年12月、町の中心部にある仮設住宅が一家の住まいになった。晩ごはんはできるだけ全員そろって食べる。父1人、子ども3人。スーパーでお惣菜を買ってくるのが精一杯の日もあった。
「(子どもたちを)学校に出して自分の時間が空いたら、何としても海に行って仕事してこないと」。漁師仲間が次々と復活する中、2年遅れて漁を再開した高利さん。「それよりは家の方が心配だったんで。家っつうか子どもたちのね、軌道に乗るまでが大変でしたね」。慣れ親しんだ海の仕事と、まだまだ手探りの家の仕事。
年が明け2015年、また3月11日がやってきた。「きょうが特別な日っていうわけでもねえし。たまに来てっからさ。あんまりこだわってねえもん。忙しいからな」と、高利さんは墓前で手を合わせる。
家事に子育てと、高利さんにとって初めてのことばかりだ。病気の時どうすればいいのか。子どもたちの予防接種はどこまで済んでいるのか。智子さんに聞きたいことがたくさんあった。あの日までは夜明け前から海に出て、家のことは智子さんが担当していた。
5月、高利さんは早起きして慣れない料理をしていた。柚葉ちゃんの小学校初めての運動会でお弁当を作るためだ。シャケのおにぎりボールに、玉子焼きとウインナー。作れない分はオードブルを注文した。
応援に駆け付けた叔父さん、叔母さんも弁当を持ち寄って、たくさんの料理が並ぶ。柚葉ちゃんが真っ先に手を伸ばしたのは、パパが早起きして作った玉子焼きとウインナーのお弁当だ。この日、最後までパパのお弁当を離さなかった。
■「震災のことを後世に伝えたい」
2016年2月、家族で海に出た。船でしか行けない島の神社に、震災後初めて訪れた。豊漁と安全を祈願する一家の恒例行事。かたわらに、今は智博さんが寄り添う。
智博さんは中学生のころから同級生たちと募金活動に取り組んでいる。町内の津波が襲った地区21カ所すべてに石碑を建てる活動だ。
2019年3月11日、智博さんは町の追悼式典で、遺族代表として率直な思いを語った。
「まだ完全に震災を受け止められていません。いろんな思いを持って、葛藤もありますが、現在も活動を続けています」
さらに今年2月、「(当時のことを)あんまり話したくないなっていう気持ちは変わってないんですけど、自分のできる範囲でできるだけやりたいことをやりたいなっていう気持ちがあって。その1つとして『震災のことを後世に伝える』っていうのがある」と話した智博さん。
今、石碑は18基まで増えた。
■「女子にしか聞けないことは、やっぱママがいたら聞けたのになって」
2016年8月、町の中心部に自宅を再建し引っ越した。しかし、思秋期真っ只中の奈桜さんと高利さんの親子喧嘩が勃発。奈桜さんの部屋の本棚にどう本を並べていくかという些細なことがきっかけだった。こんな時、智子さんならどうしたのか。
奈桜さんは現在、仙台で暮らしながら短大に通い、子どものころからの夢である保育士を目指して勉強中だ。「ずっと1人暮らしとかしてみたいなって思ってたんですけど、実際やると大変だし、寂しいし。(パパが)全部やってたのはほんとすごいなあって」と話す。
しかし、中学生のころは父親と話すのが嫌だったこともあった。「女子にしか聞けないことは叔母ちゃんとか。そういうのがやっぱママがいたら聞けたのになって」。
取材中、電話の着信音が鳴った。高利さんからだ。要件はご飯を食べたのかどうか。今では普通に会話ができる間柄になっている。「お父さんは好きですか?」と聞くと、奈桜さんは「嫌いじゃない。あはは」と笑う。
中学校を卒業する時、奈桜さんは高利さんに手紙を書いた。
「帰ってきて疲れているのにご飯作ってくれてありがとう。わがまま言ったり反抗したりしてごめんね。だけどいつも支えてくれたし、力になってくれてすごく助けられました。3年間だけじゃなくて今まで育ててくれて本当にありがとう」
■10年を支えたのは子どもたち「毎日格闘しながら」
うれしいことがあった時、悩んでいる時、ふと会いたくなった時。高利さんはお墓に行く。
「亡くなってんのは、わかってんだけども。だって火葬してんだからさ。でも、夢に見てる分には迷惑かけてねえからね。実家に帰ってっからそろそろ迎えに行かなきゃいけねえなあ、それを夢で見るんだけど、一緒にいる夢は見ねえんだなあ」
高利さんはこの10年で家族が好きな料理も作れるようになった。今はお兄ちゃんが腕を振るってくれる。
震災前と同じように、夜明け前から海に出られるようになった。仕事中、海の上にかかった虹。写真に撮って家族に見せる。
あの日までの毎日も。あの日からの毎日も。もう会えなくても、家族はそこにいる。
「10年を支えたのは、やっぱ子どもたちだべね。毎日格闘しながらの10年で」
(東日本放送制作 テレメンタリー『3.11を忘れない 震災家族~遺された父と子の10年~』より)