東京オリンピックの競泳会場となる「東京アクアティクスセンター」。設計に携わった建築家・丹下憲孝さんに『ABEMA Morning』は話を聞いた。
「親子2代でオリンピックに関わらせて頂いているのはそんなに数多くないと思うので、私どもとしては誇りに思っていますし、そういう意味では父の代々木の体育館を越えるのは難しいと思っていました」(丹下憲孝さん、以下同)
こう話す丹下さん。父は「世界のタンゲ」と呼ばれた、代々木競技場などを設計した日本を代表する建築家・丹下健三さんだ。父と2代にわたって東京オリンピックの競泳会場を手掛けた憲孝さん。こだわりは父から受け継いだ意思だった。
「本番のスイミングプールとサブプールも同じ高さにしていますから、平行移動をした時に心拍数が上がらないとか。『あそこで泳ぐといい結果が出て楽しいね』って言ってもらえるのが最高のプールだと思います」
柱をなくし選手と観客の一体感にこだわった、父・健三さんから学んだことが存分に生かされた設計だと憲孝さんは話す。そんな建築家親子の発想の原点はどこにあるのか。
原爆投下から4年後の1949年、健三さんは復興を目指す広島市が行った、今の平和記念公園一帯を再開発するコンペに入選した。2016年、アメリカのオバマ元大領領が献花した慰霊碑、そして原爆ドームと資料館は直線になるように設計されている。
「原爆ドームを壊すという話。当時の人々の悲惨な記憶を消したいということで壊すという案があったようですが、父は『こんなことが2度とあってはいけない』『忘れてはいけない』『歴史の1ページで平和の象徴として残すべきだ』と」
交友関係をうかがわせる作品がこちら。健三さんは1970年の大阪万博で、会場全体の基本設計を手掛けた。
「いろいろなコラボレーションを考えていて、岡本太郎先生とは昔から仲良くさせていただいていて。父がつくった屋根を、(岡本先生は)『芸術は爆発だ』ということで『丹下さんの屋根を突き抜けてやろう』と。父はびっくりしたと思うが『面白いね』ということで、2人の友情の表れだと思います」
1991年、東京・新宿に完成した都庁新庁舎。これを手掛けたのも健三さんだ。注目は、議事堂前にある「都民広場」。お手本にした本物が、バチカンのサンピエトロ広場だ。
「現地に出向きまして、スペース感をみんなでメジャーを持って計ったのを覚えています」
広場の大きさを計るため、事務所みんなで巻き尺を持ってヨーロッパに。ただ、こうしたことを実行するのは、健三さんと憲孝さんにとってはごく当たり前のことだったのかもしれない。
「その建物を見に行って感じるスペース、体感するものをどんどん見るべきだと思っています。父親としては最高の父親でした。無口で物は言わない人ですけれど、いろいろなところに連れて行ってもらったし、とにかく『本物を見ろ』と。建築のみならず全てにおいて『本物』を見ることの大切さを教えてくれたのが父です」
健三さんは2005年に死去。その後、事務所を引き継いだ憲孝さんが最初に手掛けたのが「モード学園コクーンタワー」だ。場所は、健三さんが手掛けた都庁と同じ東京・新宿ということで、特別な思い入れがあったと憲孝さんは話していた。
(ABEMA/『ABEMA Morning』より)