本当は多くの犠牲があった「釜石の奇跡」…それでも「命てんでんこ」…3.11を生き延びた人々が抱え続ける“葛藤”
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 地震があったら津波に備え迷わず逃げる。あなたには、本当にそれができるだろうか。10年前の3月11日、津波の恐ろしさを知る人たちでさえ、避難の難しさに直面していた。

【映像】3.11を生き延びた人々が抱え続ける“葛藤”

 生き残った人々の胸には「『命てんでんこ(自分の命は自分で守れ)』って分かっていても、そうはできないから『命てんでんこ』の教えがあとから出てくる」「なぜうちの妻だけ、残らなきゃならなかったの、と。ここだけを知りたい…」「葛藤の中にいます…」といった様々な思いが去来する。

 「津波てんでんこ(地震が起きたら他人に構わずてんでんばらばらに逃げなさい)」の教えを守り、命をつないだ女性は、「伝えられていることのすべてが、本当というわけではない」と話す。人々のあの日の選択とその後の人生から見える、避難することの意味とはー。

 逃げないといけないと分かっていても、津波に飲まれる人たちがそこにいる。それでも、あなたは逃げることができますか?(岩手朝日テレビ制作 テレメンタリー3.11を忘れない 揺らぐ てんでんこ~それでも逃げて~』)

■いのちをつなぐ語り部は「自分がやるべき仕事」

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 岩手県の沿岸部・釜石市鵜住居町で、いのちをつなぐ未来館で語り部として働く、菊池のどかさん。

 菊池さんは、いのちをつなぐ未来館で「津波の音はヘリコプターに近い音。ヘリコプターがすぐ頭の上で飛んでいるんじゃないかっていうぐらい大きな音がしたのを覚えている。私はなんでこれを選んだかというと、自分にできることだと思ったからかな。自分はやらないといけないと思ったからこの仕事に就いている」と説明する。

 菊池さんが語り部として働き始めた2019年はラグビーワールドカップの開催に釜石が沸いた年だった。

 完成したばかりのスタジアム。その場所には、かつて菊池さんが通っていた釜石東中学校があった。隣に立つのは鵜住居小学校だ。

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 釜石市では震災で1000人を超える死者・行方不明者がでた。うち半数以上が鵜住居だ。

 菊池さんは「鵜住居にいた人たちは11mの津波を経験しました。津波は黒かった。壁のようだった。津波が来たときに風が吹いてきた。その風ですごく頭が痛くなったっていう話をする人も数人います」と学生たちを前に話す。

 菊池さんは当時、卒業を2日後に控えた中学3年生だった。地震が起きたのが下校時間のことだった。

 菊池さんは「鵜住居小学校の敷地のこの辺りに電話ボックスがあったんだけど、この電話ボックスから母親に電話をかけていた時に地震が起きました。すぐに津波が来るっていうのは思いました」と話す。

■中学生が小学生の手を引き、多くの命が助かった「釜石の奇跡」

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 菊池さんら中学生、そして鵜住居小学校の児童は避難を開始する。およそ2kmの道のりを、津波が迫る中、走り、高台に着いたおよそ570人が助かった。危機的な状況の中でも中学生が率先して避難し、多くの命が助かったとして、当時「釜石の奇跡」とたたえられた。

 震災直後の菊池さんのインタビュー映像では「小学生とか一人で逃げる時にパニックになってしまうので、その子たちの手を取って『大丈夫』って言いながら山の方に逃げて、みんなで中学生はできるだけパニックになっていてもそれを小学生に見せないで安心させるように行動した」と答えていた。

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 これまで度重なる津波に襲われ、一家が全滅する世帯も少なくなかった三陸地方。いつしか「命てんでんこ」が語り継がれるようになった。

 地震があったら、てんでんばらばら、それぞれが迷わず逃げろ―。この教えを生かし、鵜住居小学校と釜石東中学校は定期的に合同で避難訓練を行っていたのだ。

■「1064人亡くなった釜石のどこに“奇跡”があるの?」

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 多くのメディアが報じた「釜石の奇跡」。しかし、美談として独り歩きを始めていた。

 木村正明さんは自作の絵を、いのちをつなぐ未来館に贈った。多くの人に津波を忘れないでほしいと願うからだ。木村さんの妻・タカ子さんは、鵜住居小学校の事務職員をしていた。震災の日、小学校から教師や児童が避難した後もたった一人学校に残り、今も行方が分かっていない。

 木村さんは「自分の事よりも人のことを先に考える人で…」と振り返る。

 なぜ妻は学校に残ったのか?残るよう指示があったのではないか?木村さんは何度も学校や市と話し合いを重ねた。

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 2012年10月の校長らとの話し合いの場で、木村さんは「本当のことを明らかにしないであやふやな状態で、このまま、はい終わりですとするのも間違っていると思う。私は別に責任問題を言っているつもりはありません。本当の原因を洗い出して、次に同じことが起きても被害を出さないためにどうするか」と述べた。

 しかし分かったのは、子供を迎えに来る保護者に対応するため学校に残った可能性があるということだけだった。

 木村さんには妻をめぐるもう一つの苦しみがある。木村さんは「『釜石の奇跡』という言葉は、死者の声に耳を傾けている言葉と言えるでしょうか?妻が学校に残って対応したことや実際の事実関係を元に考えると『釜石の奇跡』という言葉は違うよなと思っています。1064人亡くなった釜石のどこに奇跡があるの?逃げた子供たちに関しては事実だから素晴らしいと思う。1064人の犠牲の意味を消してしまうんじゃないか…」と吐露する。

 震災を伝えようとする木村さんと菊池さん。2人の思いは同じだ。しかし、「奇跡」という言葉が立ちはだかって、菊池さんは木村さんの本心に踏み込めずにいた。

  菊池さんは「自分たちのことをどう思っているんだろうっていうのがあったりとか。私たち自身も(木村さんが)奇跡と言わないでくれと言ったというのを聞いていたので、どういう気持ちだったんだろうというのが正直気になっていて。だけど聞けなくて…という状況が、ずっと続いていて…」と思い悩む。

■自分だけ逃げて助かって…でも「一緒に逝けば良かったと思う」

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 佐々木トモさんは、津波で夫の正夫さんを亡くした。震災当時、正夫さんと住んでいた宮古市田老には高さ10m、総延長2.4kmの巨大防潮堤があった。

 佐々木さんは「津波だから出っぺし。避難すっぺしって言ったの。それでも聞かなかったの…。役場の放送が『3mの津波』って言っていたわけだ。だからそれを信じて『3mならこの防潮堤を超えるわけはない』って動かなかったの。あんまり私がうるさく言うもんだから、押し出されて鍵を閉められたの…」と振り返る。

 1人で近くの高台へと逃げ始めた佐々木さんは「もしかして(夫が)来たかなと思って後ろを振り向いたら来なかったから、そこであきらめた…」と語る。

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 津波は防潮堤を超え、田老の町を飲み込んだ。正夫さんは、流された自宅の中で亡くなっているのが見つかった。震災後に言われた一言が今も胸に突き刺さっている。

 佐々木さんは「手が痛くなるくらい引っ張っても聞かないんだ。だがら(夫の)妹さんには『自分だけ逃げて兄貴は連れてこねぇで』って言われたども…。一緒に逝けば良かったと思うことの方が多いね。今ここにきて一人になってみて…」と悔やむ。

■「命てんでんこ」ってわかっていてもそうはできない

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 鵜住居にある旅館・宝来館の女将、岩崎昭子さんは「津波が来たんですけど、残りました。残った宿として、ご紹介させてください。(私たちが)生きれた映像です」と映像を見せる。映像は旅館の裏山から撮影された。

 映像では津波がすぐ背後にまで迫っている中、懸命に裏山に走っている姿が映し出されている。「早く!」と絶叫する人の声。この時、すでに岩崎さんは津波に飲まれていた。岩崎さんが早い段階で近づいてくるのが分かる。後ろには逃げ遅れている人たちが…。見捨てることはできず、裏山を登りかけた足が止まった。岩崎さんは「『早く来て。上がって上がって』と。全員助かったー、と思ったら空を見上げて浮いていたんですよ。なんで水の中にいるんだろうって」と振り返る。

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 岩崎さんは裏山沿いに30mほど流されたが、なんとか斜面にしがみつき、助かった。あの日の葛藤を初めて明かした。

 岩崎さんは「『もっと早くみんな上がって』って思いながら押しながら『先にこっちに上がって』と思う自分と…。自分だけ助かって後で後悔する自分と、私、実は2つあった、あの時…。後悔しない自分を選んだ。見て黙っているんじゃなくて、後悔しない自分を考えた。『命てんでんこ』ってわかっていてもそうはできない。『命てんでんこ』の教えが後から出てくると思う」と話す。

■たくさんの人に助けてもらったから…“奇跡”と呼ばれる資格はない

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 中学生が小学生の手を引き、多くの命が助かった「釜石の奇跡」はいつしか誤解を生んでいた。菊池さんは「どうしても手を引っ張ってっていう所が大々的に取り上げられてしまって、学校から最後まで手をつないだって取られてしまうことが多いんですけど…」と話す。

 菊池さんたち中学生は一時避難場所の介護福祉施設に到着。鵜住居小学校の児童が追いついた。小中学生が手を取り合い一緒に避難したのは、ここから次のデイサービス施設までの300mだけだった。

 菊池さんは「避難訓練では学校から手をつないで避難する訓練をしていたが、当日学校から手をつないで避難していたら誰も生き残らなかったと思う。そういう部分で上手く伝わらないことで『手をつなげばいいんだ』って、(避難で)時間がかかってしまって、次の災害で亡くなってしまうっていう状況が起きかねない」と危惧する。

 また菊池さんたちは「自主的に避難を始めた」とも言われていた。しかし実際には教師の呼びかけがあった。介護福祉施設でも、裏山が崩れ始めていると近所の人から教えられ、先生がさらに高台へ避難するよう指示をしていた。

 菊池さんは「自分たちは助かったけど助けてもらったんですよね。たくさんの人に。だから…本当に奇跡と呼ばれる資格は全くない」と話す。

■話せば話すほど“奇跡”という言葉が独り歩きする不安を抱えて…

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 震災で小学校の事務職員だった妻が行方不明になっている木村さん。津波から逃げ延び、同級生らとともに“奇跡”と呼ばれた菊池さん。

 対照的な境遇の2人。菊池さんは語り部としての葛藤を初めて打ち明けた。

 菊池さんは「私たちが伝えること自体が木村さんを苦しめていたりするのかなっていう思いがあったりして…。いろいろこの10年間大変なところを過ごしてきたと思うので…。ここに来てくれた時だけは普通に何でもない話を笑ってできる空間に…」と打ち明けた。

 木村さんは「『釜石の奇跡』っていう言葉が大きいんじゃないかと思うけども、あれはのどかさんたちが発信したわけではないし、はっきり言って私にとっては納得できない言葉だけど、それをのどかさんたちが重荷というかプレッシャーに感じることはないと思う」と答えた。

 菊池さんは「一番木村さんに申し訳なかったんですよ。話せば話すほどドツボにはまっていくというか自分たちでどんどん発信してしまっているような感じになってしまって、なんかもう、木村さんに対してごめんなさいじゃ足りないことになっちゃっているなっていうのはすごく感じていたので、今それ分かってくれていたんだなって…」と涙ぐむ。

 木村さんは「最初からのどかさんたちが自分たちで奇跡なんかじゃないのと言っているのしか聞いていないから、そこの部分は必要以上に気にしなくていいと思う」と話した。

 菊池さんは「やっぱり同じ地域の中で2つの学校に関わっている人たちの中だけでも分かってくれる人がいるということは、すごく自分にとっては嬉しいというかありがたいことだし、こうやって普通に話ができる感じになれたのは嬉しい」と語った。

■「逃げないといけないと分かっていても、置いて逃げることもできない」という葛藤

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 あの日、夫を残し避難した佐々木さんに「死なないでよかったと、震災後思った?」と問いかけると、「そう思う時はあったね。ああ生きていてよかったな~孫が来て嬉しいなと思う時はあった。一番孫が来るのが楽しみだね。どんな時でも逃げた方が良いと思う。3mの津波って言ったら、これを超えるわけがないと言って動かなかった。そうやって死んでいったの…」と防潮堤を見つめる。

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 あの日、自分より周囲の避難を優先し、津波に飲まれた岩崎さんは「自分は逃げるということだけをすると思います。自分で自分を助けなくちゃいけないからね…」と話した。

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 木村さんは、妻が勤めていた学校の跡地に建設されたラグビースタジアムを訪れた。石碑に刻まれた「あなたも逃げて」の言葉。メッセージは木村さんが決めた。あの日の妻に対する思いでもある。

 木村さんは「やっぱり逃げなきゃダメなんですよね。助けきれない人も出る可能性もあるけども、でもそれはあなたも逃げてっていう文言にあるように津波てんでんこの精神にあるように、それは私はやむを得ないんじゃないか…。逃げたことによって責めてもダメだし、後悔する気持ちを持たないで」と説明する。

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 あの日、奇跡と呼ばれた菊池さんは、「次の津波が来るまでに時間があるわけではないと思っていますし、私は逃げたくても逃げられない人たちのそばにいることが多いので、そういった方々を置いていく自信は正直なくて、震災の時もこうやって亡くなった人たちってたくさんいらっしゃるんだろうなって思いながら今も仕事をしているんですけど、逃げないといけないと分かっていても置いて逃げることもできないっていう葛藤の中にいます。一つ言えるのは亡くなった方々は一生懸命、災害が起こる前に考え続けて、それでも亡くなっていった方々が釜石にいらっしゃって、その方々の命を、私たちが同じような亡くなり方をしたら『考えていなかった』ということになる。それぞれ一人ひとりが自分の命を守ることだけは変わらず思っていてほしい」。

 地震があったら津波に備えて一人でもすぐ逃げる。あなたはそれができますか?(岩手朝日テレビ制作 テレメンタリー『3.11を忘れない 揺らぐ てんでんこ~それでも逃げて~』)

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3.11を忘れない 震災家族~遺された父と子の10年~
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