ソ連兵に性接待、帰国後はいわれなき差別…満蒙開拓団の女性たちが語り始めた悲劇
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 ソ連軍が侵攻した旧満州国で男性兵士に性接待をさせられたという体験を日本人女性が告白した。女性たちに一体何があったのか。12日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、当事者の証言などを基に紐解いた。

■子どもたちに語ることができなかった過去

 1932年、現在の中国東北部に建国された満州国。日本政府は補助金を渡すなどして移民を奨励し、およそ800もの満蒙開拓団が海を渡った。

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 そして太平洋戦争末期。ソ連軍157万人の勢力が国境を越えて侵攻、関東軍が南満州方面に後退したことで、開拓団も人々が置き去りの状態になり、現地民やソ連軍による略奪や強姦の被害に遭い、村ぐるみの集団自決も相次いだという。

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 元黒川開拓団の安江菊美さん(85)は、語り部として地元の小学校を回り、子どもたちに体験を伝える活動をしている。「国境に配置されて、私たちは日本の兵器に使われたと言っても過言じゃない気がする。ソ連兵が入ってきていつ死ぬか分からなかった。隣の開拓団が集団自決して、私の母親も日本刀を枕元に置き、"小さい子を殺すから、お前は自分で死になさい"と、長女の私の枕元には短刀を置いた」。

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 しかし、菊美さんには子どもたち語っていない記憶がある。それが"接待所"についてだ。

 極限状態の中、開拓団は生きて日本に戻るため、ソ連の将校らに守ってもらうことを願い出た。その見返りが、18歳以上の未婚女性15人をソ連兵に差し出すことだった。

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 満蒙開拓平和記念館館長の寺沢秀文さんは「性接待という言葉自体が適切かどうか考えないといけないと思う。性暴力だと言えると思う。他の開拓団も含め、当時、"根こそぎ動員"といって、18~45歳の男性は兵隊に取られてしまっていて、高齢者、女性、子どもしかいない状況だった。周辺住民などからの暴力から団を守るためにはソ連軍に守ってもらうしかないという極限状態だった。その中で、幹部の皆さんは辛い決断をしていた」と説明する。

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 そして17歳以下の少年少女たちは、案内係や洗浄係を任されていた。当時小学生だった菊美さんも、性接待に向かう女性たちのために風呂を沸かし、性器を洗浄する係に就いた。「"ソ連兵のところに行くから風呂炊きなさい"と。そして、行ってきたらすぐ医務室に入って洗浄する。兵隊さんの"うがい薬"を薄めてビンに入れて、ホースで洗浄させていた。発疹チフスが流行っても、自分に熱が出ても出ていかれた。助けてくださるという気持ちしか分からなかった」。

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■2013年、生存者が声を上げる

 2013年になり、そんな辛い体験を打ち明けたのが安江善子さん(当時89歳)だ。

 「本当に悲しかったけれども、泣きながらそういう将校のお相手をしなければいけない。ボロボロになって自分の心の中に寝ても覚めても忘れられない。ときどき夢にうなされて」。講演でそう語った2年後に、善子さんは亡くなった。

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 生前の善子さんに事実を語り継ぐよう頼まれ、手記を託された菊美さんだったが、「今までずっと見せなかった」と話す。

 善子さんの手記には「べにや板でかこまれた元本部の一部屋は、悲しい部屋であった。泣いても叫んでも誰も助けてくれない。おかあちゃん、おかあちゃん、の声聞こえる」と綴られていた。銃を持ったままのソ連兵に怯える女性たちの泣き叫ぶ声が響いた接待所は、400人が避難する旧国民学校の校舎のすぐ裏にあったという。

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 「ダーっと部屋が並んでて、みんな雑魚寝みたいな格好で。(ソ連将校は)何人もいるから、1回に4人くらいいくよ。大人はみんなわかってるから近づかない。大人がやらせてるんだから」(菊美さん)。

 黒川開拓団の曽我久夫さんによる手記には「接待するこの乙女たちの泣き声がもれてきた。我々団員は心の中で泣いた」と綴られている。また、別の接待役の女性は「汚いものを触るみたいに、銃の先で私たちを動かして、銃を背負ったまま私はやられた。抵抗して暴発したら死んでしまう。友達と手を繋いで"頑張りなね"しか言えない状況だった」と証言。「ベルトが外れる音がずっとトラウマになってこの70年頭から離れることがなかった」と語る女性もいた。

 岐阜県・ひるがの高原に住む佐藤ハルエさん(94)も、そんな悲惨な体験をした黒川開拓団の一人だ。「"団を守るために、どうか頼む""あんたら娘だけでどうか頼む"って。それは忘れない。頑張ってどうにかして日本に帰りたい。それだけが念願で、犠牲になった。当番が決めてあった。今夜はこの人、明日はこの人って回ってきて。みなさん病気になられて、順々に亡くなっていった」。

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 総勢約600人で満州に入植した黒川開拓団は約400人が生還した。しかし犠牲になった女性たちを待っていたのは、身内からの中傷だった。

 菊美さんは「接待に出てくれと頼んだ人が、帰ってきてから"いいことした"でいいじゃないか、って中傷した。酷いと思うよ。そんな無責任なことはないってみんな泣いて怒ってたけどね」。

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 故郷を離れ、独身のまま亡くなった人もいる。ハルエさんも、弟から"黒川では嫁のもらい手がない"と言われて故郷を離れた。そして他の村の出身だった健一さんと結婚し、荒野だったひるがの高原の土地を開墾し、酪農を始めた。「ここで乳絞りましたけどね。大きな借金をして。主人だって義勇隊で満州体験して南方から帰ってきたんで、何もかもわかってくれて、本当に良い主人だった」と厩舎で語るハルエさん。

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■当事者たちの親族の苦悩

 戦後を生き抜き、子どもも孫もできた女性たちが、近年になって事実を明かした理由は何だったのだろうか。

 ハルエさんは「もうそういうことを公表しようと思う犠牲者もいないでしょう。亡くなっちゃって。みな揃って帰ってこれた。その元になれたと思えば、今生きているうちに喋るのは恥ずかしいこととも何とも思わない」と振り返る。

 しかし、周囲の人たちにとっても、この事実は重いものだった。ハルエさんの息子・茂樹さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは子どもとしては嫌だった部分があった」と話す。

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 また、善子さんの長男・泉さん(65)は「我々には一言も言わなかったことを表で発表したところに重要度を感じる。“性暴力は発表するものじゃない、隠すものだ”っていう思いが、帰ってきてからの彼女たちを何十年も苦しめた」と話す。

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 ハルエさんが「お父さんが来られると"嫌だ"と思った」と振り返るのが、8年前に黒川開拓団遺族会の会長になった藤井宏之さん(67)の父親だ。当時、女性たちをソ連兵に差し出す"案内係"をしていた開拓団員だった。

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 遺族会会長になって初めてその事実を知った藤井さんは、犠牲になった女性やその遺族を訪ねて回り、タブー視されてきた史実を碑文として残すことを呼びかけた。「碑文は役員会を何回も開いて当時の人たちの気持ちになって作ったものですから」と藤井さん。菊美さんは「藤井さんは責任を感じている。(碑文を)書き直しては、これでいいか、これでいいかと何枚紙をもらったやら」、元団員の新田貞夫さん(83)は「何回も手を入れた。反対意見もあったようだし、いろいろあったが、私はよかったと思っている」と明かした。

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 そして去年11月、女性たちの勇気ある告白と、それを受け止めた家族。そして開拓団遺族の贖罪の気持ちが結実した"乙女の碑文"が完成した。

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 碑文には「生きるか死ぬかを選択させられた黒川開拓団の幹部は、生き抜くことを選んだ。(中略)。数えで十八歳以上の未婚の女性たちを集め、ソ連軍将校に対する『接待役』を強いた。女性たちは逃げたかったが団全体の生死が関わる事態に嫌だとは言えず交代で相手をさせられた。日本への引き揚げ後も恐怖は脳裡に焼きつき、その上中傷もされた」と、性接待の事実が刻まれている。ハルエさんは「書いてもらった方がいい。そういう歴史があったことを伝えていかなきゃならん。そういうことを伝えていくのが生きとる者の大きな使命じゃないか。本当にはっきりした。あれができて、私は死んでも後悔はない」と清々しい表情で笑顔を見せた。

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 しかし藤井さんは「これを掲げたから終わりじゃない。生存している方に寄り添っていかなきゃいけない」と話し、今もハルエさんや遺族たちの所に足を運ぶ。「ハルエさんたちのおかげで、今の僕らがここに生きてる。もっと早くああいったことをしなくちゃいけなかったと思ったし、申し訳なかったと思ってる」とハルエさんに語りかけていた。

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 善子さんの長男・泉さんは「戦争という異常状態になってしまうと何が起きるか分からないわけでしょ。性接待の問題も行けといったのは同じ団の人たちなんだから。皆おかしくなっちゃう。そういう状態に陥らないように努力するのが我々の大事なことだろうと思う」と語っていた。

■"第二の加害者"が生まれた理由に向き合うべき

 性接待をした15人の女性たちのうち、4人は現地で亡くなり、祖国の土を踏むことはなく無かった。健在なのはハルエさんを含む4人だけになった。

 寺沢さんは「黒川開拓団の問題を含め、満蒙開拓、あるいは満州開拓というのは戦後あまり語られてこない、送り出した側としては国民を危険な場所に追い込んだ、いわば不都合な歴史だからだ。しかし、不都合なことに目を瞑る社会はまた同じ過ちを繰り返す。悲しい経験をした人々の言葉に向き合って、二度と同じような悲しい犠牲者を出さないような国や時代にするにはどうすればいいか、学んでいかなければいけないと日々思っている」と話す。

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 ライターの速水健朗氏は「この問題には、"第二の加害者"がいると思う。それが日本帰ってきた後、犠牲にした未婚の女性たちを共同体に受け入れなかった人たちだ。なぜそういう排除が起きたのか知りたいし、そこに向き合わないと、この問題を受け止めたことにはならないと思う」と指摘。小川彩佳アナは「私たちは、戦争の中に生きた人たちの生の声を聞ける最後の世代ともいえる。この女性たちにとって、戦争はずっと続いていたんだなと感じた。何度も言葉で蹂躙され、トラウマに苦しめられ、どれだけのことに耐えてこられたのか。敬意を表する。最近のMeTooの流れとシンプルに一緒にしてしまうのは良くないが、共感してもらえるかもしれない、という望みも生まれているのだと思う。そういう女性たちの癒やしていくことができるのであれば、共有し、共感して、戦争の地続きの今を感じることが必要だ」とコメントしていた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)

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