「長生きしてよかった、でももっと早くにみんなが分かってくれていたら」二十数年前までは誰も近寄らなかった瀬戸内海の島で
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 「すんぐ治って帰れると思うちょった。けんど母は、かみのけをふりみだし、どこまでもどこまでも、バスをおわえてきたのが不思議だった」。

 香川県高松市にある高松港から、船に乗って約30分。周囲わずか7キロほどの「大島」は、緑の松と白い砂浜、青い海が広がる美しい島だ。この大島に実在する人物をモデルにした現代アート『Nさんの人生』。当時16歳だったNさんがバスに乗って故郷・高知県を離れるシーンから物語が始まる。

  “Nさん”こと野村宏さんは、1952年、16歳で故郷の高知県を離れ、大島へやってきた。それから67年。83歳になった野村さんには、ここで暮らし続けざるを得なかった理由がある。「中学3年生の時に右の大腿部に栗まんじゅうぐらいのアザができて、それがハンセン病の最初の症状だったんですよ。病気になったらこの島に連れてこられるのは分かってたんだけど、旅行にでも行くような気持ちで、すぐに帰れる、そういう気持ちで来たんですよ」。(野村さん)

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 らい菌によって皮膚や末梢神経などが侵される「ハンセン病」。感染力は非常に弱く、戦後には治療法も確立された。しかし、1907年に始まった隔離政策はその後も続き、多くの入所者や家族が激しい差別・偏見に苦しんだ。中四国8県のハンセン病患者が強制隔離された大島で、野村さんを待ち受けていたのは、受け入れがたい現実だった。「島流しにあったようなもんで、大島に入ったらもう二度と出ることができない。閉じ込めて亡くなってもらう。それが、らい予防法なんです。大島は人間を捨てた島ですからね。帽子着てマスクして、臭いような消毒して、茶色くなった予防着を着て、長靴はいて、そんで診察するんよ」。

  「らい予防法」が廃止されたのは今からわずか二十数年前のこと。元ハンセン病患者による国家賠償訴訟では、野村さんを含む国立療養所大島青松園の入所者59人も原告団に加わった。結果は勝訴。国は過ちを認めて控訴を断念、坂口元厚労大臣(当時)は「生涯にわたり隔離政策を続けてきたことに対して、心からの謝罪を申し上げたい」と述べた。

 しかし全てを取り戻すには、あまりに長い時間が経っていた。納骨堂には、今も故郷に帰れない、約1400人の入所者が眠る。差別を恐れて身分を隠し、偽名のまま亡くなった人も多い。「予防法が廃止になって、いつ帰ってもええよと言われたけど、年を取って、こんなに不自由になったら、どこにも行くとこないがな。帰る場所も無くなってしまった。67年じゃもん、ここに来てから。そうやったら、ここで最期を迎えたいし、われわれが入るところも作っているわけよ」。(野村さん)

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 妻の春美さんとは、60年以上連れ添ったおしどり夫婦だ。今も冗談を言い合いながら、農作業を楽しむ。

 大島で出会い、患者同士で結婚した二人。 まもなく新しい命を授かったが、誕生を見届けることは叶わなかった。「我々入所者は結婚を条件に避妊の手術、子どもができたら堕胎。それが当たり前やったんです。妻は堕胎させられて、子どもはホルマリンの瓶に漬けられ、研究室の棚に放置されたんです。もう本当に悲しくて、家で泣くわけにはいかないから、山へ行って、自分の畑の隅で泣いたことを今でも思い出します」(野村さん)。

 苦楽をともにしてきた春美さんに、いつも野村さんが必ず口にする言葉がある。「仲がええと言うけど、仲がええようにおらなしゃあないやんか。お互いに貧乏くじひいて、こんな病気になって来たのに。二人でなんとか支え合ってきたから一人前にな、長生きさせてもらって…」。

■「強い人ですよね」…歩んできた人生を現代アート作品に

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 この日、野村さんが訪ねたのは、絵本作家として活躍する田島征三さん(79)。代表作『しばてん』をはじめ、国内外で高い評価を得ているアーティストだ。島の北側に残る、かつて大島青松園の入所者が使っていた古い寮を使い、去年6月から創作活動を始めていた。

 年が近く、少年時代を同じ高知県で過ごした二人。しかし、歩んできた人生は対照的なものだった。「国は早く死んだら喜んどるんじゃけん。みんな言ってたよ。“早く首でも吊ったら、厚生省も喜ぶわ…”って。何も悪いことしたわけじゃないのにのう」と話す野村さんに、「つらい人生を全く知らなかった…。人権も、生きる術も全て奪われてしまった。そういう方が生きていることを作品にできないかと。スロープを降りて外に出ると、すばらしい畑があります。野村さんの畑なんですね。野村さんが今こういうことをなさっているんだっていう作品にしようと思います」。(田島さん)

 “野村さんの人生を、この一軒の家に”。田島さんの新しい作品は、5つの部屋を使った大作だ。

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 「強制隔離の島」と「現代アート」を結びつけたのが、瀬戸内海の12の島と2つの港を会場に3年に1度開かれる現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」だ。コンセプトは「海の復権」。アーティストが地域住民と関わりながら島の魅力を発信し、活気を取り戻そうという試みで 2019年に4回目を迎えた。来場者は島を巡りながら、ユニークなアートを楽しむことができる。総合ディレクターの北川フラムさんは、芸術祭開始にあたって、大島と、産廃不法投棄に苦しんだ豊島に参加を呼びかけた。

 「“海の復権”を考えるのであれば、ちゃんとやらなければならないのが大島。ハンセン病患者は隔離され、ここに住むしかなかったけれど、頑張ってやってきた。その二つの現実を、人に来てもらって知られていくのがいいのではないかと、OKしてもらった。記憶・記録を残すという意味で、アートは極めて多様な角度から全体性を浮き上がらせることができる。それがここにあるということは、すごく重要ですね」。(北川さん)

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 大島に住んでいるのは入所者と職員だけ。平均年齢は約85才、51人の入所者が後遺症のケアや高齢化にともなう医療・介護を受けながら、穏やかな時間を過ごしている。各地で療養所の地域開放が進む一方、離島の大島は将来構想を描けずにいた。そんな中、昨年からは旅客船の定期運航が始まり、一般の人も訪れやすくなっている。“強制隔離の記憶を、現代アートに”。 それが長年ここで暮らしてきた入所者の選択だった。

 大島青松園入所者自治会の森和男会長は「我々も療養所の将来を考えないといけなくなったんです。“隔離の島”から、“開放された島”になっていくんだろうと。こんなつまらんものを置いといてもどうにもならないと思っていたんですけど、“瀬戸芸”という一つの機会に残すことができた。大島にとっては価値のあるものだということを、我々に思い起こさせてくれた」と話す。

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 「こちらが大島で使われていた解剖台です。“悲しい記憶がよみがえるが、これも私たちが生きてきた歴史の1ページ。見て何かを感じてほしい”とおっしゃっていました」。瀬戸内国際芸術祭をきっかけに海から引き揚げられた解剖台や、入所者が使っていた釣り船、引き取り手のいない遺品など、失われかけていた島の記憶が、歴史を物語るアートとして蘇り、芸術祭のボランティアスタッフによるガイドツアーも行われている。

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 野村さんもアドバイザーとして参加した。「野村さんが重病の方の世話をさせられた時、おまるが無いので、便器を作ったんだよね、木で。身体のあらゆるところがダメになって、命だけ。そういう人の面倒を見なきゃいけないのはきついよね。当然、自分もそうなっていくんだという恐怖が」と田島さん。「棺を作ったりな…。いつ死んでもいいように、いっぺんに20ぐらい作る。あんたらには想像もつかんだろう」と野村さん。田島さんは、その持ち運び用便器をモチーフにした作品を制作することにした。

 そして田島さんは、3つ目の部屋に結婚のシーンを再現した。野村さんを海賊に、春美さんを人魚に見立てた。義足に義手、眼帯を付けた海賊は、ハンセン病の後遺症をイメージしたものだ。「良くないんじゃないかなと思ったけど、思い切って野村さんに聞いたら、“これはワシに似てカワイイからええじゃないか”ということになって。あの人は強い人ですよね。その強い人でも春美さんと支え合ってきたから生きてこられたという、それは大きいと思いますね」。

■「いい時代になったな」「もっと早くにみんなが分かってくれていたら」

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 2019年の瀬戸内国際芸術祭では、大島で5人のアーティストが新作を含む12作品を展示。来場者の数は前回の2倍以上にあたる、約1万3千人にのぼった。野村さんの人生をモデルにしたアートも完成した。

 もう二度とわが子に会えない。そう思って、どこまでもバスを追いかけてきた母親。 職員が足りず、軽症の患者が泊まり込みで、重症の患者の世話をさせられたこと。結婚と強制堕胎。夫婦の絆。4つめの部屋には、医師と看護師が土足で診察に来るシーンを再現した。

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 「なんか、読むとつらくなりますね」と感想を漏らすスタッフ。最後の部屋には、田島さんの野村さんに対する想いが綴られていた。「この国でNさんと同じ70年を生きて、Nさんのことを知らなかった。知ろうともしなかった」。そして部屋の外に出ると、そこには野村さんの畑が…。

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 鑑賞した来場者からは「まだここに暮らしている人が昔、本当に受けたことというので、すごく衝撃で…」「ハンセン病に対して、この国がどんなひどいことをしたかということが、まっすぐ伝わってきて…」といった声が聞かれた。

 野村さんに出くわした来場者が作品のモデルになったNさんだと気づいて驚きの声を上げると、野村さんは「そんなん言うたって、大島で長いこと苦労しよるだけのもんよ」と笑う。

 「(アートを作るのは)もうええわとも思ったけど、はっきり作らないと分からんし、途中からあきらめて、好きなようにせいって(笑)。あんなことは私一人じゃないんよ。ここで生活して長いこと苦しんだ人たちは、あんなことよりもっとつらいことがいっぱいあったんだから、オレ一人のものではないんよ。でも、やっぱり最後の言葉なんかすごいやんか。何も知らずに過ごした人がいっぱいおる。あれにみんな感動していくね。そういうことが、もっと早くにみんなが分かってくれていたら、こんなにいつまでも差別されておるようなこともなかったと思うし…。あまりにも遅かった」。(野村さん)

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 芸術祭の最終日。野村さんの畑は収穫の季節を迎えた。1万人以上が島を訪れたことを知った野村さんは、「昔は誰も入って来る島やなかったから、それがこうやって開放されて大勢来るというのは、本当に変わったなというのが実感よ。いい時代になったな。もうそんなには長生きできんけど、まぁ長生きしてよかったわ」と話した。入所者の自治会では、島の一角を整備して、桜の苗を植えている。「きれいな島やなってみんな言うやろ?きれいな島よ本当。みんなが桜をまた見に来たらええがな。10年ぐらい経ったら、だいぶ綺麗になるけんな。だからいっぱい植えとる。ここは桜公園になるんよ。その時分まで生きておれるかな(笑)」。

 二十数年前までは誰も近寄らなかった瀬戸内海の強制隔離と現代アートの島で、“Nさん”の人生は今も続いている。大島では芸術祭閉幕後も作品を残し、定期的に公開する。強制隔離の島の記憶は、未来へとつながる。

(瀬戸内海放送制作 テレメンタリー『長生きしてよかった~強制隔離と現代アートの島で~』より)

長生きしてよかった~強制隔離と現代アートの島で~
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