終戦の翌年、長崎県五島列島沖に集められ、アメリカ軍によって次々と爆破処分された日本海軍の潜水艦の映像。「伊58」と大きく書かれた潜水艦の甲板でアメリカの軍人が覗き込んでいた台のようなもの。特攻作戦に使われ、「鉄の棺桶」と呼ばれた人間魚雷「回天」を搭載していた部分だ。
山口県周南市にある大津島。太平洋戦争末期、ここにあった回天の訓練基地から、多くの若者たちが南の海へ向かい、そして二度と帰ってくることはなかった。(山口朝日放送制作 テレメンタリー『「回天と100人の棺桶」人間魚雷と元少年兵たち』より)
■「どうせいつか死ぬんじゃと思っとるけんな。ただ、回天の人は1人で亡くなる」
2017年春、慰霊のため大津島を訪れたのは、伊58潜水艦の乗組員だった中村松弥さん(当時88)と清積勲四郎さん(当時91)。港から歩いて10分、急こう配の坂道を上った高台にある慰霊碑を目指す。
ここで毎年行われている慰霊祭は、中村さんが元乗組員たちに声をかけ、20年前に始まったものだ。当初は十数人の元乗組員が参列していたが、2016年からは中村さんと清積さんだけになった。
「毎朝10km歩きよる。本当よ、健康のために」と話す清積さん。中村さんが「清ちゃん、杖なしやな」「俺はあかんわもう」と話しかけると、清積さんは「ちょっと耳が遠い」。中村さんが「オレも遠い」と答えると、清積さんは「目がかすむ。後は悪いところはない。ごはんだけは食べている」と応じる。
海軍潜水学校・柳井分校の同期生で、卒業後は伊58潜水艦の乗組員となった2人。太平洋戦争の開戦後、大量生産されていった日本海軍の潜水艦だが、劣勢に陥るに従って被害も急速に拡大。壊滅寸前となった潜水艦部隊が起死回生を狙って開発したのが「回天」だった。2人の乗り組む潜水艦にも回天が積み込まれることになった。
「何ともないな、そのときには。どうせいつか死ぬんじゃと思っとるけんな。僕らは爆雷で浸水したとかなったら、みんながそのまま。だから死ぬのは同じだと思っているから特別な感じはなかった。ただ、回天の人は1人で亡くなる」と清積さん。士官室の雑用係だったことから、回天搭乗員に仕えたこともあった。「(搭乗員が)乗り込むといったら、すぐに行くでしょ。でも、僕らは見送るわけでもいないんよな。部屋を片付けんといけんでしょ」。
搭乗員が出て行った分、用意する食事の数が減る。当時17歳だった清積さんにとって、回天の記憶はそれだけだ。「船の中におるだけ。だけど出撃のときなんかも、松ちゃん(中村さん)は詳しい」。
■「これはもう“棺桶”だなと。常にみんなと話していた」
京都で暮らす中村さんにも話を聞いた。搭乗員たちの名前を記した色紙を大切に飾っていた。「私が乗っていた58から出ていった人だから、ここに置いてあげて、お神酒でもあげたらいいかなと思って。ちょっとでも忘れないようにしないといけないと。また誰かが見たら思い出してくれるかなと」。
電話線が引かれていたという回天の内部。搭乗員は受話器を握り、潜水艦からの指示を待った。中村さんは、その伝令役を務めていた。「艦長が全てを計算しているから、その言うことをひとつひとつを回天に向けて報告する」。
1945年7月18日。伊58はおよそ100人の乗組員を乗せてフィリピン東海域へ出撃した。艦内では、6人の回天搭乗員が出撃を待っていたという。28日、敵艦を発見。橋本以行艦長の言葉に、中村さんは集中した。「『発進用意』と言うと、(回天から)『発進用意よし』と来る」。指示を受けていたのは小森一之さん(当時19)だ。
「艦長が『発進』。すると向こうで『発進』と復唱してくる。その後で『用意、テッ』となるとパッと出て行くのだけれど、『用意』のとき、うちの艦長は『最後に言うことないか』と言ってやる。向こうからは『長らくお世話になりました』。それを伝えると、艦長が『用意、テッ』と。艦長は敵の方ばっかり見ていて『煙あげて走りよった、逃がしたらあかんぞ』とつぶやいていた」。
搭乗員たちの最後の言葉について中村さんは「とにかくねぇ、『ありがとうございました、長らくお世話になりました』というのが一番。ほんとんどがそうやったけど、伴中尉さんだけは『天皇陛下万歳、後続のものをよろしく頼みます』と、こう言った」と振り返る。中村さんに最後の言葉を託した伴中尉とは、伊58の回天特攻隊長だった伴修二さん(当時22)のことだ。
「女々しいこと言わずに出て行くし、素晴らしいなあと。私らでも気概と言うか、そういうのには惚れていたもんね。オレもやりたいなという。潜水艦乗りというのは、みんなそれなんですよ。せやからこれはもう“棺桶”だなと。常にみんなと話していた」。
■「あの人たちのおかげで生きていられるのだから、ありがたいことです」
「小森一之。小森はねぇ、よく喋ったりしていた。だから、先越されたというような感じがあった」と話すのは、小森さんたちと一緒に訓練を受けていた、元搭乗員の中川荘治さん(93)だ。8月4日に出撃が決まっていた中川さんだが、乗り込む潜水艦が空襲を受け、作戦は中止に。
「当時は、死んでこの戦いに勝つんだ。日本のためにと。そこまでオーバーに思ったかどうか覚えてませんけど、何の抵抗もなしに行けましたからね。逆に出撃になって喜んでいましたから。それが分からないんです。なんで喜んでいたのか。世の中の流れに乗っていただけ。乗っていた、というより、流されただけかな。乗っているというほど意識がない。流されたんでしょうね」。
慰霊式に参加した小森さんの弟・正明さん(当時76)は、中村さんに兄の最期を確かめに来た。大津島に残されていた出撃記録には、潜水艦から報告された戦果が記されており、58から出撃した回天5基は全て敵艦を沈めたとされている。「本当によくやったなと。あっぱれだったなとほめてやりたいと思います」「苦しんで、それでも命中したからよかったと思っている」。
ただ、中村さんは「はっきり言うけど、出て行ってアメリカの大型のタンカーにぶちあたったと思います。うちの艦長も、はっきりとは見極めていない。というのは、スコールが来たり、闇夜で見えくかったりするから。ただ爆発音がした、水煙が上がった、というのは分かる。だから当たったな、とは思う。聴音でも、“この方向から爆発音がしました”と連絡が来る。そうすると、“当たったんやな”というだけ。はっきり、目で見て確かめたわけではありません。闇夜で5000mも離れていたら分かりませんわ」と話す。
命中できなかった回天は自爆したため、その爆発音を区別するのも困難だった。出撃記録には“撃沈45”隻という戦果が記されているものの、現在までに確認できているのは3隻のみだ。小森さんの戦果についても、はっきりしていない。
正明さんは「こうして戦後70年経ってもはっきり言ってもらえることは、兄弟として、身内としてありがとうございます。かえって生きておられた人が辛いのではないかと、私はそう解釈します」。中村さんは「ご解釈はいろんな角度でしてもらったら結構ですけど、私は尋ねられたかて、私の知っていることしか答えられませんのでね。あとはそちらの方で想像に任せます」と応じる。「あの人たちを思い出すたびに、ありがとうございました、と言うだけのこと。あの人たちのおかげで生きていられるのだから、ありがたいことです」。
■「松ちゃんの年までは3年ほど。頑張りたいなあと思っておるんじゃけど」
去年の慰霊祭を体調不良のため欠席した中村さん。そして去年7月、94歳で亡くなった。2019年の慰霊祭が、最後の大津島訪問となった。
「ああ、なんと言ったらいいのか、言うに言われん、何とも言えん。まあ本当、悲しいというか残念というか、一緒に死ぬということはそれはかなわんことだけどね」と清積さん。身内に迷惑をかけまいと生前葬も済ませている清積さん。死を恐れなかった元少年兵だが、現実の死は重たい。「10人兄弟がいてねぇ。全員亡くなっているけど、誰が悲しいていって、松ちゃん(中村さん)ほど悲しいことはなかった。本当ね、もし(戦争で)亡くなっていたら、松ちゃんと命日同じだからね。それはもう他人に言っても分からんけど、血はつながってないけどね、松ちゃんが亡くなったのは本当にさみしいよ」。
清積さんには気がかりなことがあった。大津島での慰霊祭をどうするのか。中村さんとは、「2人のうちのどちらかが亡くなったら終わりにしよう」と約束していたが、結論を出せないまま、今年の春を迎えた。
例年、慰霊祭が開かれていた3月の最終土曜日。慰霊祭そのものは新型コロナウイルス感染拡大により中止となったが、それでも大津島には清積さんの姿があった。長い坂を登ってきた。止むにやまれず、一人で島を訪れたという。「今日は(中村さんも)来ていると思う。松ちゃんからは(慰霊祭の)1カ月や2カ月も早くから、手紙や電話で連絡があったから」。
回天特攻作戦による海軍の戦死者956人のうち、潜水艦乗組員は811人。慰霊碑には、回天もろとも撃沈された潜水艦の名前も刻まれている。
「日本がなぜ戦争を始めたのかも何も分からない。ただ相手が悪い国だから攻めていかないといけないのだと。嘘かもしれんし、今考えると間違いかもしれん。松ちゃんも言っているはずじゃ。戦争だけは絶対にいかんと。要するに、戦争というのは人の殺し合いですから。人間は人を殺したら死刑でしょ。1人だったら別だけど。潜水艦は沈めたら何十人と殺すわけでしょ。完全なる人殺しだからね」と清積さん。
改めて回天記念館を訪れた清積さん。中村さんが潜水艦で使用した遺品も展示されている。「中村松彌」と書かれた木札を手に取り、「58潜水艦と書いてある」。
朝4時半、散歩に出かけた清積さん。大津島での慰霊祭について「松ちゃんの年までは3年ほど。頑張りたいなあと思っておるんじゃけど。そしたら初めて松ちゃんと同じに死んだわいと。頑張っていかないといけん。それが目標よなあ」。清積さんは今日も歩く。