1966年、静岡県で味噌製造会社の専務一家4人が殺害されたいわゆる「袴田事件」。袴田巌さん(87歳)の死刑確定から40年余りを経て、裁判のやり直しが決定した。
【映像】「正月も盆もない生活」から支援者の助けで再審の扉が開くまで
人生を狂わされたのは巌さんだけではない。巌さんを信じ、支え続けた姉のひで子さん(90歳)も「事件があってからは笑いもしなかった」と振り返る。ひで子さんはどのような57年を過ごしたのか。
ひで子さんは6人兄弟の5番目、3歳下の末っ子が巌さんだ。歳が近かったのでよく面倒をみたという。
ひで子さんは13歳で終戦を迎え、15歳で社会へ出てキャリアウーマンとして働いた。いっぽう、巌さんはおとなしい性格だったが持ち前の運動神経の良さをいかしてボクシングに目覚め、プロとして活躍。
事件が起きたのはひで子さん33歳の時。人生が一転した。
「報道もひどい。今の時代と違う。警察寄りの報道、警察の発表通りの報道だった。もう犯人だ犯人だ(と決めつけた)。そうじゃないと言いたいけど言えなかった。だから、3年くらい新聞もテレビもラジオも一切見なかった。(私は)元々明るい人間だけど巌の事件があってからは笑いもしなかった」
家族だけが頼りだった。当初、面会・差し入れなど巌さんの面倒は母親のともさんがみていた。
「ある日、母が裁判所に行き、帰りがけにどこかのおじさんが声をかけてくれた。『この裁判はおかしいね』って。それが母親は嬉しくて。こう言ってくれた人がいたよ、ひで子って電話してきたことがあった」
しかし1968年、静岡地裁で死刑判決が。そのショックもあったのか、母ともさんは68歳で他界。代わりに立ち上がったのがひで子さんだった。
「兄は嫁さんがいるし、姉さんも子供がいるし私がやるしかない。親孝行のつもりで始めた」
弟の無実を信じて戦うひで子さんは袴田事件の象徴になったが、それは「慣れ親しんだ日常との訣別」を意味した。
「みんな知っているので、同窓会、催しものも行けない。お正月、盆もない。世間から身をひそめる生活だった」
死刑判決から半年後、ひで子さんは巌さんにある異変を感じるようになった。それは面会に行った時のことだった。
「昨日処刑があった。隣の部屋の人だった。お元気でって言ってた。みんながっかりしてるって一気に言ったの。それはショックだったと思う」
この時を境に、巌さんは精神的に不安定になったという。ひで子さんにも異変が。
「夜中に目がふとあいて、なんでこんなことになっちゃったのかなと。眠れないし、明日仕事があるからとウィスキーをクイクイ飲んで、二日酔いになって明日仕事に行くという状況でした」
アルコールに逃げる日々が3年ほど続いたという。そんなひで子さんを変えたのは支援者の存在だった。
「支援者が出てきて、電話をよこしても私は酔っぱらっている。こんな状況では巌を助けるどころではない。自分が先に参っちゃう。それで酒をやめて、それからは一滴も飲んでいない」
「開かずの扉」と言われる再審への道を開いたのは支援者の存在だった。東京高裁が再審決定を出した最大のポイントは、5点の衣服についた血痕。高裁はこれを捜査機関による証拠の捏造の可能性があると指摘。「味噌につけると血痕は黒く変色する」これは支援者がボランティアで実験を繰り返した努力の成果だった。
「支援者はみんな家族。かわいそうとかそんな生やさしい問題じゃない。死刑囚なんていうのは。それをみんなわかってくれている」
ひで子さんは自分たちの苦労は些細なことだと語る。
「私たちには自由があった。巌は自由はないし、巌の苦労を思えば私の苦労は何でもない」
釈放から9年。現在、ひで子さんは巌さんと二人で暮らし、今までできなかった生活を取り戻している。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
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