日本時間の3月7日、ブル中野が世界最大のプロレス団体WWEのプロレス殿堂「WWEホール・オブ・フェーム」入りすることが発表された。
日本人レスラーのWWE殿堂入りは、アントニオ猪木、藤波辰爾、獣神サンダー・ライガー、グレート・ムタ(武藤敬司)に続く史上5人目(レガシー部門をのぞく)。日本人女子レスラーとしては初となる快挙だ。
ブル中野は1983年に全日本女子プロレスでデビュー。88年にWWWA世界シングル王者となり、“女帝”としてトップに君臨。94年からは海外に拠点を移し、日本人として初めてWWF世界女子王者にもなっている。そして今回、悲願のWWE殿堂入りをはたしたブル中野によろこびの声を聞いた。
(取材・文/堀江ガンツ)
――このたびはWWE殿堂入り、おめでとうございます!
ブル ありがとうございます! うれしいですね。本当に待ちに待ってました。
――やはり「いつかは殿堂入りしたい」という思いがあったわけですか。
ブル ありましたね。私は現役時代、日本(WWWA世界シングル)、アメリカ(WWF世界女子)、メキシコ(CMLL世界女子)、すべてのトップのベルトを獲ることができたので、最後にWWE殿堂入りできれば完璧だなと思ってたんです。
そして2015年にWWE時代のライバルだったメドゥーサ(アランドラ・ブレイズ)が殿堂入りしたので、私もできるかもしれないと思ってたんですけど、ずっとそんな話はなかったので。「もう、このまま時間とともに忘れられていくのかな」「殿堂入りの可能性は、あっても2パーセントくらいかな」と思っていて。諦めかけていた時に殿堂入りの話が来たので、本当にうれしかったですね。悲願達成できました(笑)。
――日本人のWWE殿堂入りはレガシー部門をのぞくと史上5人目で、女子では初となります。
ブル それがいちばんうれしいです。私より前にJBエンジェルスさん(山崎五紀&立野記代)がWWEで活躍されていたので、あってもそちらが先かなというふうには思っていたんですけど。やっぱり、一番になりたかったので。
――殿堂入りの第一報はどのようにして届いたんですか?
ブル ある方から「WWEの方がZoomで話したがっている」という連絡を今年の1月9日にいただいて。1月16日にWWEの方と実際にお話して、そこで初めて「殿堂入りが決まった」と聞いて、その時はもう泣いてしまいましたね。
――どのような涙でしたか?
ブル これまでの苦労がすべて報われたなって。私は現役時代にほしいものはすべて手に入れて、素晴らしいプロレスラー人生を送らせてもらったんですけど、辛いことも本当に多かったんですよ。自分が初めて赤いベルト(WWE世界シングル)を巻いてトップになった時は、ダンプ松本さんやクラッシュ・ギャルズ(ライオネス飛鳥&長与千種)さんが引退されたあとで、お客さんがまったく入らなくて。トップとしてすごく惨めな思いをしたこともあったし。WWE時代も充実はしていたんですけど、移動や生活面での苦労がすごくあったので、それらすべてが報われた。これでようやく終われるなっていう感じですね。
――中野さんのWWEでの活躍は1994~95年が有名ですけど、その8年前、1986年にもダンプ松本さんのパートナーとして、人気絶頂だったクラッシュ・ギャルズと一緒にWWEに遠征して、ニューヨークの殿堂MSG(マディソン・スクエア・ガーデン)でも試合してるんですよね。
ブル はい。あの時、私はまだ17歳で、アメリカ本土に行くのも初めてだったんですけど。プロレス自体は全日本女子プロレスのメインを張って、もう全部できるという自信はあったので、とにかく自分のプロレスを見せて、あとはアメリカのお客さんたちにどう受け入れてもらえるかなという思いでした。
――それにしても、あの時まだ17歳だったんですか。17歳でMSGのリングに上がったのって間違いなく日本人最年少、世界でも史上最年少かもしれないです。
ブル マディソン・スクエア・ガーデンがすごいのかなんなのかもわかってないで上がったんですけどね。中学の頃、「MADISON SQUARE GARDEN」って書いてあるスポーツバッグが流行って、そのイメージしかなかったので(笑)。
――いわゆる「マジソンバッグ」ですね(笑)。実際にMSGで闘ってみた感想はいかがですか?
ブル 私たちはヒールだったので、ほとんどブーイングしかなくて反応がわからなかったんですけど、次の日の新聞に載ったんですよ。そしたら、ダンプさん、クラッシュさんも出てらっしゃった中、私がヌンチャクを披露している写真がいちばん大きく載っていたので、それがうれしかったですね。そのあと、先輩にいじめられましたけど(笑)。
――大スターのクラッシュ・ギャルズ、ダンプ松本を差し置いて17歳のブルさんが大きく載ったもんだから、嫉妬のいじめですね。さすが全女です(笑)。
■ヒールがリング上で見せた“笑顔” 日本人初のWWF世界女子王座を獲得
――94年にWWEに行くきっかけはなんでしたか?
ブル 私は当時まで全女にあった「25歳定年制」をなくして、アジャ(コング)に赤いベルトを獲られたあとも現役を続けたんですけど、後輩たちのためにもずっと全女にいることはできないなと思っていたんです。じゃあ何をすればいいか模索していた時、たまたまWWEから話が来て。「私が海外との架け橋を作ればいいんだ」と思ったんです。
――そういった使命感を持っての渡米だったんですね。実際、ブル中野とアランドラ・ブレイズの抗争は、アメリカの女子プロレスを変えましたよね。今、WWEでは女性アスリートの地位がすごく上がって、ビッグマッチのメインをウィメンズ・ディヴィジョンが飾ることも珍しくなくなっていますけれど、その先駆けだったと思います。
ブル それを聞いてすごくうれしいですよね。自分たちがやっていた時、メインイベントで組まれることはまずなかったし、女子の試合も1試合だけ。巡業に出ている女性も私とメドゥーサとマネージャーのルナ・バションの3人だけだったんですよ。それがだんだんと女子の試合もすごいって認められていったんです。
でも、私とメドゥーサがいなくなってからは、『プレイボーイ』とかのグラビアに出ているきれいな女性たちがリングに上がる“ディーバ”と呼ばれていた時代があったので、「この先どうなるのかな?」という風には思っていたんですけども。それが今は本当にすごい闘いをしてくれるレスラーばかりになって、また認められて。それはすごくうれしく思いますね。
――その原点が、ブル中野vsアランドラ・ブレイズにあると認められたからこその今回の殿堂入りだったと思います。
ブル だったらすごく光栄ですね。プロレスはやっぱり相手あってのものだし、私もメドゥーサというライバルがいたから、WWEでもブル中野の試合が見せられたと思っているので。
――そして94年11月20日、全女の東京ドームでアランドラ・ブレイズを破って日本人で初めてWWF世界女子王座を獲得するわけですよね。
ブル あの時は本当にうれしかったですね。私はずっとヒールでやってきたので、リング上で泣いたり笑顔を見せたりは絶対にしてこなかったんですけど。あの時は本当にうれしくて、リングで笑顔を見せてしまいましたから。
――その後、95年にWWE遠征を終えるときはどんな思いでしたか?
ブル 辛いこともたくさんあったんですけど、いろんな人に助けていただいたからやってこれたので、感謝の気持ちを手紙に書きたいなって思ったんです。それでたくさんのレスラーや関係者に手紙を書いたんですけど、あまりにも数が多かったので、私のあとからWWEに来た白使(新崎人生)選手と、アメリカ在住だった西村修選手がちょうどいたので、同じ文面で二人にも書かせました(笑)。
――感謝の手紙の代筆をさせましたか(笑)。当時のWWEに日本人女性は中野さんだけでしたが、いまはイヨ・スカイ、ASUKA、カイリ・セインの3選手が大活躍しています。彼女たちの活躍はどう見ていますか?
ブル それもうれしいの一言ですよね。今まで頑張ってきた選手が、チャンスを逃さずつかんで、いまあのリングに立っているんだなということが手に取るようにわかるので。それにたくさん女子レスラーがいればいるほど盛り上げるし、モチベーションもすごく高いと思うので、ますます頑張ってほしいと思います。
――では最後に、これから上を目指していく若い女子レスラーたちにメッセージをいただけますか?
ブル 大事なことは「チャンスは絶対に逃さない」ということ。あとは「自分のプロレスはこれだ!」という強い芯が一本ないとブレてしまうので、それを持つことも大事です。そして「自分が何になりたいか」を常に考えていないと、そこにたどり着くことはできないと思います。「リングに上がれればそれでいい」という考えの人ならそれでもいいですけど、私は「絶対に世界一になる」という強い思いがあったから、世界一になれたと思うので。強い気持ちを持って、夢を実現させてもらえたらなって思います。
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