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【映像】岩佐まりと認知症の母(複数カット)
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 20歳からの20年間、認知症の母の介護をしてきたフリーアナウンサーの岩佐まり(40)にABEMAエンタメは独占インタビューを実施。この20年間で岩佐が犠牲にしてきたこと、そして、それでも母に寄り添い続けることを決めた理由を明かした。

【映像】岩佐まりと認知症の母(複数カット)

 岩佐は1983年、大阪で運送業を営む父とその会社で事務として働く母の間に生まれた。母は現在、胃に管で直接栄養を入れるための“胃ろう”の手術で入院している。父は去年、腎不全で亡くなった。

「私はお母さんと仲が良くて、学校から帰ってきたら友達と遊ばないで母と遊んでるような子どもで、手をつないで買い物行って。結構大きくなってからもお母さんと仲が良い友達親子みたいな、まさにお母さん大好きっ子でした」

 母にベッタリだったという岩佐は母が憧れていた芸能の世界で活躍し、喜ばせたいと18歳で上京した。ところが、それから間もなくして、母に異変が起こりはじめる。

「前兆は体調不良だったんですよ。頭が痛いとか、めまいがするとか、喉が苦しいとか。それが私が18、19の時から始まって、母が仕事ができなくなったんです。そのうち物忘れをするようになって、さっき言ったことをまた同じ繰り返して話す。電話でも同じことを言うんです。何回もかけてくるんですよ。5分前に電話かけてきたのに、『元気?久しぶり』って5分後にかけてくるんですよ。びっくりしますよ。当時アルバイトしてたんですけどね、アルバイト先にお母さんが電話かかってくるんですよ。『うちの娘がどっか行ったんだけど知らないですか?』って。びっくりしちゃいました。」

「病院いろいろ行って、診断がついたのが58歳の時です。私はまだ23歳。その時に軽度認知障害と診断されました。58歳の軽度認知障害って言われた時が一番ショックでしたね。アルツハイマーっていう名前を聞いたのも初めてだったし、病名を調べた時にものすごく怖い病気だったんですよ。最初は物忘れで始まって、最後は死に至るぐらいの勢いだったので、私はかなりショックでした。お先真っ暗。母をどうしたらいいんだろうっていう、何とか母の介護をしなきゃいけないな、私がやるしかないな、どうしようかなって不安でした。」

 そして始まった母の介護。トラックのドライバーだった父は家をあけることが多く、岩佐は、東京と大阪を行き来しながら介護を行ったそうだ。

「もう何度も大阪に行って母の様子を見るんですけど、ご飯もちゃんと食べられていないから、どんどん痩せていくんですよ。自分では『食べてるよ』って言うんですよ。でも部屋の中に入ったらご飯が部屋中散乱しているんですよ。『これいつのご飯?』みたいな腐ったご飯がいっぱい出てきて、ちゃんと自分で食べられていないという状況になっていました。トイレがどこにあるか分からなくなって、ベランダで用を足すんですよ。お風呂も入れなくなるんですよ。3カ月お風呂入ってないとか。私もよく注意してましたね。『トイレはベランダじゃないよ』とか怒ることの方が多かったかな。『なんで覚えてないの?』とか。全然受け入れられなかったですね。『なんで出来ないの?なんでもっと覚えてたじゃん』とか『物忘れはあったけどもっと色んなことを覚えれてたよね。なんでこんな事まで出来なくなったの?』って。『なんでこんな事になるの?なんでこんなに進行するの?』みたいな感じでよく怒ってました。」

 そうした日々を5年続けた岩佐。この頃には日本テレビ系のバラエティ番組『恋のから騒ぎ』に出演。その後、フリーアナウンサーに転身するなど仕事面でも忙しい生活を送っていた。そんな中、見過ごせない出来事が起こる。

「(お風呂に)入っていないのが匂いでわかるんです。本当に臭いんですよ。それでお風呂屋さんに連れていくんです。そうしたらもう服を脱ぎたくないって言うんですよ。入りたくない。でも脱がせますよね。無理やり脱がしてお風呂に入れたら体真っ黒で、ポッチャリしていた体も痩せこけてて、一生懸命洗って垢を落として…。このままだったら本当母の命もたないなって思いました。母と一緒に住もうと。ただ、私が夢を諦めて大阪に帰ってきたら悲しむのお母さんなんですよ。だから私は夢をあきらめない。東京に残ったまま母を東京に呼んで、介護しながら仕事しようと決めたんです。それで母と住む家を探して東京に呼び寄せました。」

 父親が母の介護で精神的に参っていたこともあり、2013年、岩佐が30歳、母が65歳の時に東京での同居生活が始まった。しかし、付きっきりの介護は試練の連続だったそうだ。

「一緒に住んでからすっごい困惑しましたよ。びっくりしました。こんなに大変なんだっていうね。家じゃないって言いますから。家に帰りたいって言うんですよ。ここが家だからって100万回言いましたよ。ここが家だよって。来たでしょうって。分かってって言っても、もうここは違う、帰りたいって飛び出すんです。家。服の引っ張り合いです。ダメ。行く。ダメ。家の中も大変な事になるんですよ。子どもと一緒です。例えばおもちゃとか便器の中に入れるんですよ。その辺にあるおもちゃとかを全部便器の中に入れたり、服とかも便器の中に入れちゃうんです。蓋を開けたら服が入ってるんですよ?あとオーブントースターの中に服入ってるんですよ。フライパンの上に服乗っけて炒めうとするんです。めっちゃびっくりしますよ。」

 そしてついには、娘の存在自体を忘れるようになっていた。

「え、これがアルツハイマーなの?みたいな、すごくびっくりしましたね。だからよくケンカをして、『なにやってるの?』って。『バカじゃないの?』って。向こうも怒られると余計怒るんですよ。『何が悪いのよ』『悪いに決まってるだろ』みたいな言い合いをしていて。」

 仕事以外の時間は、全神経を母に注がなければいけない毎日。それはこれまで築いてきた交友関係との断絶でもあった。

「飲み会とかはいけないってわかってるから誘ってくれなくなりました。だから友達がどんどん減っていきましたよ。今分からないけど、その頃合コンとかいっぱいあったじゃないですか。合コンもほんと行けなかった。みんな声かけてくれても『ごめん行けない』って言ったら、もうあんまり声かからなくなって。だから出会いがなかったです」

「苦しい思いをいっぱいした」それでも母に寄り添い続ける理由

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 20代、30代という貴重な時間を母に捧げた岩佐。なぜ「自分のしたい」を犠牲にしてまで母に寄り添うことを決めたのか?

「習い事とか『あれやりたいな』とか『どう思う?』とか、お母さんに聞いても『やりたいことやったらいいんだよ』って。『何やりたいんやったらいいじゃん』っていつも言われてたんです。何か幼い頃からその言葉をずっと言われてた気がする。

 幼少期に言われた「自分のやりたいことをやりなさい」と言う母の言葉。岩佐にとってのやりたいことは大好きな母のそばにいることだった。

「なんでこんな事を親のためにっていうのがない。なぜなら、多分めっちゃ親が好きだったんですよ。例えば自分の子ども、すごく可愛いじゃないですか。子どもが病気になったら何としてでも自分が病院に連れて行こう、なんとしても離れてても何度も通って様子を見に行こうって思いません?何か不思議なんですけど、介護をしたいというよりも、母を幸せにしたいなんですよね。だから母を幸せにすることから目を背けたことがないって感じなんですよね。」

 さらに、母がふと口にした言葉にも救われていると言う。

「母から暴言言われることとかいっぱいあって、苦しい思いをいっぱいしたんですけどね。でも、あるときふと母が言ったのがね、『まりちゃんわかってるよ、お母さんこんな頭だけど、まりちゃんが一生懸命やってるの分かってる』ってぼそっと言ったんですよ。その後もすぐ忘れてまた暴言吐かれたんですけど、一瞬何かそんな風に言ったことがあって、それをずっと私宝物にしています。きっと母は分かってる。今も。だから私は母を大切にしたい。幸せにしたい。だから暴言を吐かれても辛くないんですよ、もう。」

 ただ、母への思いだけでは、どうにもならない時だってある。そうした際には周りの人に頼ることも必要だと言う。

「夜中に何度も家を出ようとするから、私が寝不足になったんですよ。その頃もアナウンサーの仕事に就いていて、翌日ニュース読まなきゃいけなかったんだけど、もう目の下にクマができて周りが心配するんですよね。このままだったらちょっと仕事と介護の両立が難しいな。
私もしんどいと思って(介護支援専門員の)ケアマネージャーに『もう限界かもしれません』って一言、ポチって深夜にメールしました。そしたらケアマネージャーが翌日すぐ連絡くれて、『お母さんをもっとサービスを増やして、人に預けることをした方がいい。もっと自分の時間を作って、もっともっと遊びに行ったりとか、介護から離れた方がいい』って言われたんです。それでショートステイとかで1泊2日とか、毎週お母さんをショートステイに送り出したりとか、デイサービスを週5日、毎日デイサービス行ってもらって、離れる時間を作ったんです。そしたら私が友達とも遊べるし、軽く旅行とかも行けるようになってちょっと楽しくなったんです。それから少しずつちゃんと向き合えるようになってきたかな。」

 岩佐は、2020年、37歳の時に一緒に母を支えてくれる地元の男性と巡り合い、結婚。翌年には第1子となる男の子も誕生した。この結婚を機に大阪に移り住んだ岩佐一家は、現在、母と4人で暮らしている。認知症が進行している岩佐の母は、ほとんどの時間を部屋で過ごしているそうだ。

「自分で立つことも、寝返りを打つこともできない。ご飯を食べることも出来なくなって、この前胃ろうといって胃に穴をあけて、管で栄養を入れる。そういう処置をしたところで入院してるんですけど、もうちょっとしたら帰ってこられるかなっていう状態に今はもうなっていて、本当にもう最後の最後の段階に入っていてあともう数ヶ月生きられるのか、何年生きられるのかっていうところです。」

 これまで支え続けてきた母に迫るお別れの日。刻々とその時が近づいてくる中、気付かされたことがあると言う。

「最後は亡くなっちゃうんだろうな、覚悟しなきゃいけないなっていうのはもう毎日思ってますけど、不思議と悲しいというよりかは、今までお別れをいっぱいしてきた気がするんですよ。いきなり元気な人を亡くすような気持ちじゃなくて、小さいお別れを常に日ごろからやってきて、今残っているのは小さな最後のお別れって感じがします。去年父を亡くしたんですけど、その時、本当元気だったのに、ある日倒れて亡くなっちゃって喪失感がすごかったんですけど、母も亡くなるんだろうなって思ったときに、父みたいなそういう喪失感はないような気がして。いっぱいもう見送ってきた気がします。それだけいっぱい泣いてきたんですよね。失くしていく母を見てきた。1つ1つ。」

 20歳から始まった介護の日々。その20年間を振り返った今、岩佐が思うことは?

「私ね、諦めたことは、確かに合コン行けなかったりとか、遊ぶ時間が少なくなって、そういう諦めはもちろんあるんですけど、『やりたいことはやりなさい』っていつも言ってた母の言葉を大事にして、やりたいことを全部やれるように努力してきたんです。介護をしながら。だから、あんまり諦めたものがそんなに多くないんですよ。確かにお金はいっぱい使ったし、自由な時間というのはもう本当になくなった。だけど、やりたいことはやる。仕事は絶対にやる。結婚だってしたい。子どもだって欲しい。そういうのは全部叶えようと思って。それを叶えるためには全部私が母の介護をするわけじゃなく、母は他の人に見てもらう、そういう時間も作らなきゃいけないと思ってました。私が好きなことをやるってことは母が絶対に望んでいるから。私に幸せになって欲しいから。だから私は自分を犠牲にはしないって思ってきた。だから飲み会は行けなかったよ、それはそう。でもね、良かったんじゃないかな。逆に飲み会には行けなくて、友達は減ったけれども、残ってる友達との関係がすっごい深いんですよ。だから逆に得たものがいっぱいある気がする。長い介護生活20年ですね、考えたら。でも介護をしてなかったより、してた生活の方が人生が濃くなったかなって思うから介護してよかった。」

(『ABEMA NEWS』より)

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