実はこの島にはあまり知られていない悲しい歴史があった。大久野島では、昭和5年から第二次大戦の終戦まで、日本陸軍の直轄で生物兵器「毒ガス」を製造する工場が置かれていた。島には工場以外にも明治時代、日露戦争の直前に作られたとされる砲台や発電所、野ざらしにされた毒ガスタンクなど、歴史を感じる遺跡が多く残されている。
大久野島毒ガス資料館には、実際に使われていた液体毒ガスの製造装置や等身大の防護服、毒ガスを吸わないように着けたマスク、手がかぶれないように着けた手袋、当時製造されていた砲弾など、悲惨な歴史を物語る資料が展示されていた。
毒ガス資料館の高島徳明さんは「この島は昭和11年ごろから終戦まで、地図上から消されていた時期がある」と、本来あるはずの大久野島が描かれていない1938年発行の日本地図を見せてくれた。
島の歴史をいまに伝える人もいる。新本直登さんは対岸の忠海町で生まれ育ち、大久野島の歴史を伝えるガイドだ。
新本さんは「島ということになると、もしものときに一応隔絶されているのもあったでしょうし、一方では割と近くの島で働く人が通う必要がある。通いやすいということもあった」と説明。
「毒ガスが国際法違反というなかで作られていた。だからかん口令と言いますか、働いていても帰って家でそんなことしゃべっちゃいかんと。秘密にしていたわけですから、本当に実は地図からこれみよがしに切り取った形で載せられていた。そういう辛い歴史がある」と、地図から消されていた理由についても語った。
「いま随分様変わりして『ラビットアイランド』と、みなさんが楽しむ平和島になった。それはいいことなんだけど」と続けた新本さんは、「歴史をたどっていくと毒ガスを製造していた時代に『うさぎさんを実験の材料に使った記録』はある。私はそれを一生懸命伝えようとして活動してきましたけど、いまは圧倒的にうさぎさん。でもやっぱりそういう悲しい、辛い歴史があったんだということを知ることも大切ではないかな」と訴えた。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
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