
茨城県石岡市の住宅街で発見したのは、高さ2メートルほどの巨大な人形。杉の葉で覆われた体に赤く塗られた目元。これを見た住民は「おばけ」「妖怪」と話します。謎の人形の正体は、町に伝わる伝説に隠されていました。
【画像】武蔵一宮氷川神社の長い参道 江戸後期の中山道の図にも…
さいたま新都心駅の近くにある参道の入り口。住人は「ここから神社まで行く人はいない」といいます。上空から見ると、大宮の街中を真っすぐに伸びる参道は約2キロあります。理由を調査すると徳川家康にたどり着きました。
体長約2mの巨大な人形 背景に約250年前の悲劇
最初の不思議があるのは、霞ケ浦に面した茨城県石岡市。その不思議を地元住民は「おばけ」「たぶん妖怪」と話します。
それは町外れにありました。
山と住宅街の境目に現れたのは、体長2メートルを超える不気味な顔をした巨大な人形。一体なぜこんなものが?追跡すると、250年ほど前にこの地を襲ったある悲劇にたどり着きました。
杉の葉で表現された髪や体毛に、赤色がなんとも恐ろしい目元。通り過ぎる人を見下ろすように立つ姿は、まるで門番のようです。顔はトーテムポールっぽくも見えますが…。
近隣住民(70代)
「(顔が)あんまり優しくてもまずいんじゃない。やっぱり迫力がないと」
どうやら怖い顔に重要なご利益があるようです。さらに聞き込みを続けると耳寄りな情報がありました。
近隣住民(60代)
「この地域で残っているのは2カ所」
今度は住宅街の中に、先ほどと同じく杉の葉で覆われた毛むくじゃらの巨大人形。しかし、その顔は黒だけで描かれ、表情は少し柔らかい気もします。
日向ぼっこをしていた“町のご長寿”良子さん(94)に話を聞きました。
「(Q.お嫁に来たのは何歳の時?)26~27歳ぐらいかな」
「(Q.その時から人形はあった?)人形はあったよ」
「もう昔からやっているんでしょう。人形を作って、みんなで祝ってんだ、きっと。守り神だね」
巨大人形は、守り神のような存在なんだとか。しかし、なぜ置かれたのかはよく分からないといいます。
そんななか、ついに真相を知る人物にたどり着きました。50年来、毎年この人形の制作に携わっているという田口保雄さん(71)。巨大人形の正体とは…?
「(Q.何か伝説上の生き物?)ダイダラボッチ」
ダイダラボッチとは、全国各地に残る伝説上の巨人。日本の山や湖などの地形を造り出したと言われています。
実は、この地域にはある言い伝えがありました。
「ここの地域名が『代田』という。上から見ると、足に見えなくもないというような」
両側が山に挟まれたくぼ地。それは巨人ダイダラボッチが踏みつけてできた足跡だという言い伝えがあり、代田という地名は、ダイダラボッチからきているという云われがあるのです。
しかし一体なぜ、ダイダラボッチの人形を祭るのか。専門家はある歴史がキッカケだといいます。
しもだて美術館
学芸員 木植繁さん(58)
「一説には天明の飢饉(ききん)。その時代からなんじゃないかと。悪い病気とか災いが(町に)入ってこないようにと」
江戸時代最大級の飢饉とも言われる「天明の飢饉」。甚大な被害を受けたこの地で、魔よけのためにダイダラボッチの人形が作られた可能性があるといいます。この人形を祭ってから、町に大きな災いはないと言われています。
“2駅分”長すぎる参道 徳川家康が関与?
続いてやって来たのは、さいたま新都心駅から徒歩7分ほどの場所。赤や黄色に染まった葉が、そよ風で降り注ぐ美しい参道。皆さん神社に向かうのかと思ったら…。
さいたま市民(20代)
「(神社まで)ここから行く人はいないんじゃないかな」
さいたま市民(70代)
「(参道は)2キロ以上。もっとあるのかな」
上空から見ると、大宮の街中を貫く長い参道。なんと参道の入り口から神社まではほぼ2駅分。なぜこんなことに?追跡すると、あの徳川家康が大きく関わっていました。
一の鳥居から武蔵一宮氷川神社を結ぶ、日本一の長さとも言われる約2キロもの参道。650本ほどのケヤキ並木が紅葉の見頃を迎えていました。
神社に向かって歩くこと15分、この参道ならではの光景を発見しました。脇道から参道に入ってきた人が迷わないように、神社と駅の方向を指し示す案内板が設置されていました。
神社を目指し歩くこと30分。なんと参道を進むのに信号待ちです。そして、2つ目の鳥居が現れてきました。
七五三の参拝者(30代)
「(参拝者は)大宮駅からがメインで。さいたま新都心駅からジョギングしている人は見かけるけど、あんまりないんじゃないですか」
実は参道の入り口と神社の最寄り駅が異なるため、参拝者の多くが大宮駅で降り、参道の途中から向かっていました。
歩き始めてすでに35分が経過。ついに神社に到着。実は、ここ全国の氷川神社の総本社。「大いなる宮居」とも呼ばれ、これが大宮の由来と言われています。
およそ2キロの長すぎる参道のワケは?
武蔵一宮氷川神社
権禰宜(ごんねぎ) 淺見和史さん
「全国統一を果たした家康公のおかげといえます」
実は、徳川家康のある計画が関係していました。
「氷川神社の参道は(元々)200メートルくらいだった。参道が長くなったのは、中山道の付け替えが行われたことが原因」
家康が始めた五街道の整備に伴い、中山道が以前より遠くなった結果…。
「神社に対して真っすぐ中山道まで参道を伸ばしたため、2キロの長さが必要になった」
江戸後期に描かれた中山道の図を見ると、今と同じく、大宮の街の真横を参道が真っすぐに長く伸びています。それから数百年の時を経て、今もなお自然の残る参道は、都会の喧騒(けんそう)を忘れさせる、オアシスのような存在になっていました。
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