羽田空港の“ディープな歴史”を歩く 消えた町と残された記憶とは
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 専門家ガイドと歩いて、街を深く楽しむ“まいまいツアー”。今回は羽田空港の深い歴史を巡ってきました!

【画像】羽田空港、第1号のお客様は?

羽田空港の第1号客は?

羽田空港
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三山賀子アナウンサー
「羽田空港にやってきました。飛行機がたくさん並んでいます。今日はこの日本の成長を支えてきたこの空港のディープな歴史を知るためのツアーに参加して探っていきたいと思います」

羽田近辺の航空写真を使ったタイル
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 まずは羽田と空港の関係を知るために、東京モノレールと京急線が乗り入れる天空橋駅にある羽田イノベーションシティへ向かいます。ここにあるのが、1936年(昭和11年)ごろの羽田近辺の航空写真を使ったタイルです。

羽田江戸見町には東京飛行場という空港があった
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羽田航空博物館プロジェクト理事
星加正紀さん

「羽田には3つの町がありました。羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町。約3000人が住んでおられました。そして羽田江戸見町には東京飛行場という空港があったわけですね」

東京と横浜の間なので、アクセスも良好
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「95年前、ここを羽田に飛行場ができる時から、もうすでに言われていることが、東京と横浜のちょうど間にあってアクセスがものすごくいいんですね。それとあともう一つですね。やはりここ東京湾に面しているということで、特に遠浅ということもあって埋め立てることができたわけですね。埋め立てることによって飛行場を拡張することができた。実はこの東京湾の上空を使って、羽田は地上に騒音を出すことを軽減する。そういったためにも、この羽田が今も使われているっていうそういう理由なんですね」

三山アナ
「騒音を東京湾が吸収してくれる」

星加さん
「全部そうなんですね」

2階建のターミナルが建てられていた
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 羽田空港、95年前の痕跡から辿っていきましょう。

 羽田に最初に飛行場ができたのは95年前の1931年。当時は東京飛行場という名称で、2階建のターミナルが建てられていました。

戦前の地図と比較
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 戦前の地図と現在を見比べると、空港の端のこの辺りなんです。東京モノレール整備場駅の前を通り、ビルの間を抜けていくと、フェンスの向こうは現在工事中で、残念ながら面影は残っていません。

星加さん
「フェンスの向こう側に、初代ターミナルが95年前に建てられたわけですね」
「ここで皆さんにクイズを差し上げたいと思います。この羽田空港95年前、第1号のお客様はどなたでしょうか?3択にしてあります」

羽田空港、第1号のお客様は?
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(1)当時の総理大臣
(2)6000匹のマツムシとスズムシ
(3)宝くじの当選者

 皆さんは、分かりますか?

星加さん
「時の総理大臣だと思われる方?ああ1人ね。6000匹のマツムシ・スズムシ!お!1、2、3、4、5、6。結構いらっしゃいますね。宝くじ当選者!はい、ありがとうございます。正解は、第2番の6000匹のマツムシ・スズムシ。正解の方は、おめでとうございます」

三山アナ
「人じゃないんですね、虫?」

正解は「(2)6000匹のマツムシとスズムシ」
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星加さん
「当時、航空運賃が高すぎてですね。お客様を集めることができなかった。中国に大連というところがありまして、その大連に東京カフェというお店がありました。その東京カフェに日本の秋の声を届けようというのがようやく取れた仕事だったんですね。ですから、この羽田空港第1号6000匹のマツムシ・スズムシという。非常にこういう面白いエピソード、羽田はたくさん詰まっています」

三山アナ
「一番最初のお客さんが虫だったんですね、悔しいな」

消えた3つの町と“行き止まりの橋”

豊かな資源のもと、多くの人々が暮らしていた
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 戦前、現在の羽田空港である場所には、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町がありました。

 海ではノリの養殖やアナゴ漁、芝エビが取れたことが名前の由来になった海老取川など、豊かな資源のもと、多くの人々が暮らしていました。

 3つの町はそれぞれ、漁業が盛んな鈴木町、穴守稲荷や海水浴場があった穴守町、飛行場があった江戸見町です。明治から大正にかけて電車も通り、羽田はにぎわっていました。

 しかし、そんな町の存在を一変させる出来事が起きます。

海老取川対岸の町に移住せざるを得なかった
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星加さん
「昭和20年9月21日、アメリカ軍から48時間以内に退去せよと。住民の方は着の身着のまま海老取川対岸の羽田の町に移住せざるを得なかったという、非常に厳しい歴史がこの町にはあるんですね」

街が滑走路に変わった
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 強制退去は、GHQが空港を拡張するために命じたものです。当時の地図を見比べると、街が滑走路に変わっているのが分かります。

 そして、天空橋駅から海老取川を渡った所に、不思議な場所があります。

“行き止まりの橋”
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三山アナ
「のどかな感じ。船がいっぱい止まっていますね」

星加さん
「私たち今、稲荷橋を渡りましたが、実はここ行き止まりの橋です」

三山アナ
「行き止まりの橋?橋の意味ないじゃないですか」

 衛星写真で見てみると、本当に行き止まりです。

 実は、この行き止まりの稲荷橋には、強制退去にあった住民たちの強い思いが込められているといいます。

橋は参道だったが…
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星加さん
「(稲荷橋は)参道だったんです。参拝客が穴守稲荷にお参りしていました」

滑走路が…
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「昭和22年の写真です。参道が切られて、滑走路がこんなふうに入ってきた。そして穴守稲荷神社もなくなりました。ということで、参道としての機能はなくなってしまいました。しかし、地元の方々は通れなくなりましたが、自分たちがここにいたという記憶のために、この橋を残したいということで、橋の欄干も朱色に塗ってあるんです。参拝に行くための橋ですよということで、そういった記憶をこの橋としてとどめているのが、この橋の役割でございます」

穴守稲荷は空港から少し離れた所に移転
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 退去した穴守稲荷は空港から少し離れた所に移転し、現在も羽田の地を守り続けています。

三山アナ
「そういうことか。飛行場を拡大するために無理やり追い出されたということですね」

ここを使おうと計画していた?
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星加さん
「そうですね。アメリカ軍は戦時中から羽田を利用しようと考えた理由は、ここだけ爆撃されていないんです。実は羽田3町の鈴木町と穴守町は、爆撃されているんです。無傷のままということはどういうことかというと、やはりここを使おうというふうに計画していたからだと考えざるを得ないんですね」

アメリカ軍時代の痕跡と“空港の謎”

 そんなアメリカ軍が羽田空港を使っていた痕跡が伺える場所へ向かいます。

アメリカ軍が1940年代に建てたもの
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 この格納庫はアメリカ軍が1940年代に建てたもの。すでに取り壊されてしまいましたが、その存在を感じられる建物があります。場所は東京モノレール整備場前駅から一区画離れた場所です。

空港中にパイプが張り巡らされていた
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 この建物に張り巡らされた物々しいパイプは架空配管。加熱、加湿、動力源など様々な用途で使われる蒸気を、このパイプで送っていました。当時、格納庫をはじめ、空港中にパイプが張り巡らされていたといいます。

 格納庫はこの建物と道を挟んだ場所に建ち、パイプで繋がっていました。

現在は、草むらに
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 解体後は全く人の手が入らず草むらになってしまった格納庫跡ですが、この場所が激動の羽田空港の歴史を築いたんですね。

三山アナ
「ここに格納庫があったんですね。そういう場所から発展していったんですね。こうやって教えていただかないと、分からないことがたくさんですね」

(2026年1月30日放送分より)

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