
大御所歌手たちがステージを離れ、もう一つの「舞台」に立つとしたら…。渋谷と新宿の街角で出会ったのは、人生の味を守り続ける名店でした。
「働き詰めの母に楽を」
まず、飯村真一アナウンサーが訪れたのは、渋谷駅から徒歩5分ほどの場所にあるビルの中です。
飯村アナ
「和風の作りになっていて鉄板が並んでいますが、障子にたくさんのレコードジャケット。川中美幸さんのお店なんです」
「日本レコード大賞・金賞」といった多くの音楽賞を受賞してきた、演歌歌手の川中美幸さん(70)。デビューから約50年、変わらぬ声で人の心に寄り添い続けています。
そんな川中さんがオーナーを務める、お好み焼き店。大阪出身ということで、郷土料理「どて焼き」などもメニューにはありますが、やはり、一番のオススメはお好み焼き。
飯村アナ
「だしの香りが良いですね。口の中でどんどん広がっていくんですよ。生地がフワッとトロッとしていますが、シャキシャキ感も残っている。野菜の甘み、ソースが絡み合ってすごくおいしいです」
それにしても、なぜ東京でお好み焼き店を開いているのでしょうか。
川中さん
「飯村さん、どうもようこそお越しくださいました」
時間があると、お店の様子をのぞきに来るのだそうです。
飯村アナ
「このお店は、どれくらい経営されているんですか?」
川中さん
「渋谷でオープンして20年ですね。子どものころから働き詰めの母に楽をさせてあげたい」
実は川中さんの両親は、大阪でお好み焼き店を営んでいました。約40年前には、両親を東京・町田市に呼び寄せましたが、父親が他界します。
川中さん
「父が亡くなってうちの母が私の帰りを待つようになって。ずっと働いていた人から仕事を取り上げると、社会から取り残されたような寂しさを感じるようで。町田の家の近くで『お母ちゃんお好み焼き屋やる?』って言ったら『やる!』って急に元気になったんですよ。そこの町田も約20年くらいやっていました」
アクセスの良い渋谷でお店を開いてからも、母・久子さんは連日常連客をもてなしていたといいます。
希少ブランドの豚しゃぶも
“お母ちゃん”とお好み焼きには、こんなエピソードも。
川中さん
「『負けちゃ駄目だと手紙の中に皺くちゃお札が入ってた』(『おんなの一生~汗の花~』) 。中学2年で私はデビューが決まったんですけど、最初はそんなにお給料ももらえないし。(母親からの)手紙の中に千円札が10枚。手紙を開けると、(お札から)お好み焼きの匂いがするんですよ。そのお札のにおいを嗅ぎながらお母ちゃんに電話をして『倍にして返すからね、お母ちゃん』って。だから初心と言ったら、お好み焼き。自分が勘違いせずにいられる場所」
お好み焼きのレシピはお母ちゃんから受け継いだもの。中でも欠かせないのが…。
飯村アナ
「すごくだしの香りがすると思ったんですけど、これはどういうだしなんですか?」
川中さん
「企業秘密!」
数種類の野菜などを丁寧に煮込んで作る黄金色のだしは、お好み焼きに深い味わいを加えています。そして、たっぷりのキャベツ、つなぎのヤマイモ、甘味の強い厳選された卵で、絶妙なバランスを生み出しているのです。
ただ、魅力はお好み焼きだけではありません。
川中さん
「豚しゃぶもやっているんです」
使われているのは、川中さんがテレビで見て一目ぼれしたという、希少なブランド豚の「みやじ豚」です。
飯村アナ
「このだしとお好み焼きのだしは別なんですか?」
川中さん
「秘密!あはははは!」
飯村アナ
「この豚の甘味とだしがすごくいいですね。豚は重厚感があるけどさっぱりしている。どんどんどんどん食べられる」
川中さん
「食も歌も味なんですよ」
「私もようやく味が出てくる年齢になってきたな…と。お客様あっての歌だし、お客様来てくださっての店だし。私が地方に行けなくなったら、多分その鉄板で焼いていると思います。『へいらっしゃい!』とか言いながら」
「コスモポリタン」な故郷
飯村アナ
「『スンガリー』という名前です。こちらもある歌手の方のお店なんだそうです」
続いての場所は西武新宿駅のほぼ目の前です。ここでは、ロシア料理定番のボルシチやピロシキを味わえます。さらに、人気の一品が続きます。
加藤登紀子さんのめい 加藤暁子オーナー
「こちらロールキャベツです。トマトとクリームのソースですが、ロシアでもウクライナでも他の国でも食べられている、ご家庭でなじみのある料理です」
飯村アナ
「家庭料理なんですね。おいしいです。舌の上でキュッと潰すとスーッと全部溶けていく感じですね。キャベツとか、中のお肉なのか、甘味がすごく感じられる」
珍しいのは、肉ダネに混ぜられたコメです。肉や野菜のうまみを余すところなく吸い取ってくれます。また、煮込むのではなく、オーブンで2時間蒸し焼きにすることで、キャベツの繊維を感じなくなるほど柔らかく仕上がるのです。
飯村アナ
「このお店はどなたがされているのでしょうか?」
暁子オーナー
「加藤登紀子とそのファミリーでやっております」
世代を超えて歌い継がれる「百万本のバラ」など、数々のヒット曲で知られる、歌手の加藤登紀子さん(82)です。登紀子さんと、ロシアやウクライナの料理にどのようなつながりがあるのでしょうか?
暁子オーナー
「登紀子はハルビンというところで生まれました。ハルビンはロシア皇帝が中国に作った都市だったので、ロシア人、ウクライナ人、ジョージア人、ウズベキスタン人、そういった人々がたくさん住んでいて。いろんな人が、一緒に働いて、一緒に暮らしている。コスモポリタンな都市だったみたいです」
生まれたのは、1943年。3人きょうだいの末っ子でした。しかし、約2年後に終戦を迎え、一家は日本に帰ってくるのです。
同じように、戦後の引き揚げで、日本には多くのロシア人やウクライナ人などがいました。そうした人たちの働く場所、交流の場所として、登紀子さんの父親が1957年、東京・新橋に「スンガリー」を開業したのです。故郷を思い出せるように、店名の「スンガリー」は、ハルビンを流れる大河に由来しています。
初代料理長はウクライナ人
暁子オーナー
「登紀子は学生時代『スンガリー』でアルバイトをしていました。登紀子の娘たちも『スンガリー』でアルバイトをしていました」
「スンガリー」は働く場としてだけではなく、登紀子さんにとって、歌手の原点とも言える場所でした。
暁子オーナー
「一番最初の70年前の料理長は、満州に住んでいた日本人と結婚していたウクライナの女性なんです」
その料理長の息子が、東京・御茶ノ水のニコライ堂で結婚式を挙げました。
暁子オーナー
「それに登紀子も若い時に行きました。結婚式や披露宴がすごく印象的で、ロシアの音楽から影響を受けたようです」
名曲「百万本のバラ」も、「スンガリー」の店内でロシア人女性が歌っているのを聴いて、後に和訳し、歌うようになったといいます。
飯村アナ
「『スンガリー』がなければ、音楽が生まれていなかったのかもしれない?」
暁子オーナー
「かもしれないですね。ここに来ないと出会えないもの、ここから生まれるもの。お客様にとってスンガリーをそういう場所であり続けたいと思って、私もやっております」
(2026年2月6日放送分より)
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