
静岡県浜松市、山間に流れる天竜川。
この川のそばに石碑だけが残る 「陸軍中野学校二俣分校跡」。スパイ養成学校として作られた、「陸軍中野学校」の分校です。
陸軍は本土決戦を想定して、この分校でゲリラ戦の工作員を養成したのです。
ガダルカナル島からの撤退、サイパン島陥落。戦況が悪化していった戦争末期の1944年9月に開校しました。
【画像】「こんな馬鹿な戦争は二度とあってはいけない」 陸軍中野学校二俣分校 元ゲリラ工作員の証言【テキスト版】

急な“面接”を経て養成訓練…元工作員の証言

井登慧さんは、今年104歳。二俣分校一期生です。
井登慧さん
「武力戦では、圧倒的な武力を要する米軍に対しては、とても勝てる見込みはないと。そういうことで秘密戦である遊撃戦は、俗にいうゲリラ戦。遊撃戦の指導者を養成しないといかんと。
それで、参謀本部の指示通りに、いわゆる遊撃戦の秘密戦士を養成すると」
予備士官学校で騎兵の連隊にいた1944年7月に、井登さんは突如呼び出されました。
井登さん
「不思議な面接があったんです。『おい、ちょっと後ろを向け』と。後ろを向いて聞かれたのは、『今、テーブルの上に何があったか言うてみい』。思い出すままに、『タバコがあった。灰皿があった。万年筆があった。書類があった』。3つ4つ言ったら、『よし』ということで」
井登さんは、9月に一期生として入校しました。実際に、どんな訓練を受けたのでしょうか―。
「天竜川の河原に行って爆破訓練をしたり、行く途中に橋を渡っていく。橋を渡った時に、 『おい、止まれ。この橋の長さは何メートルあったか言うてみい』『どのくらい水深があるか言うてみい』『この橋を爆破するなら、爆薬をどのくらい注いだら爆破できるか言うてみい』『こういうのを考察と言うんだ』と言って、『これを分かるようにならんと遊撃戦はできない』と。まあ、そういう訓練です」
当時の授業科目はー。
井登さん
「科目は、謀略・宣伝・防諜とか。諜報、これは情報を集めてくる」
情報はどうやって取りなさいと教わるのでしょうかー。
「忍び込んで偵察してくる。だから、昼間なら百姓さんの格好をして鍬をかついで行く。軍服を着ていたら軍人だとして撃ち殺されるから、夜間は潜行して情報を取ってくるとかね。かなりきついです。時には、『開錠法』という敵の弾薬庫の錠がいを開ける訓練をしたりね。
それから『開封法』、手紙を検査するのね。封筒を糊で貼ってあるので、それを開ける方法ですよね。当時はバーッと蒸気をつけて、蒸気で糊が溶けて開ける」

3カ月の訓練の後に、井登さんは台湾に派遣され高砂族にゲリラ戦を指導しました。井登さんのような工作員たちは、日本各地、沖縄、朝鮮などに配置されていきました。
しかし、学校の存在は長く秘匿されてきました。
きっかけは小野田少尉の帰還
井登さん
「陸軍中野学校二俣分校、この学校の名前を絶対に秘密にせいと。親兄弟、身内の者にも。中野学校に入ってることは絶対に言うなと」
中野学校の存在が知られたのは、戦争から29年たった1974年にフィリピン・ルバング島に潜伏していた小野田寛郎陸軍少尉が見つかったことがきっかけでした。

小野田寛郎陸軍少尉
「私は、軍人として命令によってこの島に派遣されてきた。孤独感という弱々しい気持ちはありません」

小野田さんと井登さんは、二俣分校一期生の同期でした。
井登さん
「小野田が出て初めて、中野学校のことが世に出たからしょうがない。出た以上は、『こういうことがあった』ということを、残してもいいんじゃないかと『俣一戦史』(第一期生の記録)を作った」

こんな馬鹿な戦争は二度とあってはいけない
ゲリラ戦は住民を巻き込む作戦です。地上戦となった沖縄では、住民が巻き込まれました。
井登さん
「遊撃戦というのは軍隊だけでなくて、住民を使って敵を撃滅する。住民は、特に青年団という組織や在郷軍人と言って兵隊に行って帰ってきた人、消防団とか。そういう組織と連携しながら、そういう人たちに遊撃戦のやり方を教えて、『敵が来た場合には、この手りゅう弾を持って敵に向かっていこう』という。住民も一緒に敵をたたいたりせないかん場合も出てくる」
幸いにも、台湾は米軍からの攻撃はなく、井登さんはゲリラ戦を展開することなく終戦を迎えました。
井登さん
「お互い話し合いで物事を解決せよと。こんな馬鹿な戦争は二度とあってはいけない。私はいつも言っております。反省をしながら、ようあんな戦争をしたなあと…」
