“江戸城の名残”から“幕末の転換点”へ 東京駅周辺に眠る歴史の現場を歩く

“江戸城の名残”から“幕末の転換点”へ 東京駅周辺に眠る歴史の現場を歩く
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 史跡を巡り時代をたどる歴史散歩。今回は江戸城の面影が残る皇居周辺で、桜田門外の変の現場や高杉晋作らを輩出した長州藩の跡地をたどります。

【画像】やぐら残るも…天守がない理由は?

江戸城に残る櫓と天守台の物語

山村竜也さん
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 案内してくれるのは、大河ドラマの時代考証などで知られる歴史のスペシャリスト・山村竜也さんです。

 今回は、江戸城を中心に幕末の人気の志士・高杉晋作らゆかりの地や、桜田門外の変が起きた現場などを巡ります。まず2人は、東京駅のほぼ真向かいにある皇居外苑に向かいます。

江戸城の巽櫓
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山村さん
「こちらが江戸城の巽櫓というところですね。櫓(やぐら)というのは見張りをして敵の進入を防ぐというのが施設なんですけれども、これが当時はもっとたくさんありました。それが火災などでなくなって、今はこの江戸城内に残っている櫓は3つぐらいですね。その中の重要な櫓、これが巽櫓といわれている場所です」

現在3つしか残っていない
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 この巽櫓は江戸城本丸から辰巳、つまり南東の方角にあるので、この名がついたのですが、こちらの櫓を含めて現在、3つしか残っていません。

佐藤ちひろアナウンサー
「天守閣、お城は残っていないんですか?」

山村さん
「天守閣、昔はあったんですけれども、明暦の大火というのがあった時に、天守閣は焼けてしまったんですね」

明暦の大火
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 1657年、江戸の街の6割が焼けて失われたと言う江戸史上最大の火事は、江戸城内にも影響を及ぼすほどでした。

「当然その後、再建しようということになったんですけれども、4代将軍家綱の叔父で保科正之という人がいるんですけど、この人が人々の生活の復興、そういったものがなされる前に金のかかる天守を建てるのはどうなのか?というふうに保科正之は言ったんですね」

佐藤アナ
「すごい民衆思いの方だったんですね」

山村さん
「保科のこの意見が採用されて、天守は再建されないことになりました。その分のお金を民衆の生活の再建に全部使うことになったんです」

江戸城天守台
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 幕府の中では徳川の威信をかけ、天守を再建するべきという意見も多く、加賀藩前田家の手で天守台を完成させていましたが、その上に天守が建つことはありませんでした。

山村さん
「庶民のために思ってやった政治、それの象徴としてこの天守台が残っています」

佐藤アナ
「すてきですね。天守台だけ、だからこその思いが伝わってきますね」

山村さん
「おっしゃる通り、そうなんですね」

 天守は失われてしまいましたが、江戸城の面影が残る巽櫓。

山村さん
「見た目がきれいに残っているので、これ現在時代劇とかで、これをそのまま映して江戸城みたいに、そのように使うこともよくありますね」

佐藤アナ
「窓のような、へこんでいる部分、どんな役割の場所なんですか?」

狭間
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山村さん
「あれは狭間と言われるもので、あそこから鉄砲とか弓とかそういったものを覗かせて、襲ってくる敵を討つという、そういう場所なんですね。それと、ちょっと出窓のようになっている部分、分かりますか?」

佐藤アナ
「ちょっと出ていますね」

石落とし
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山村さん
「あの出窓の下、あれね、抜けているんですよ。何をするかというと迫ってくる敵に対して中から石を落とす。この石垣を登ってくる敵をわざわざね。鉄砲や弓を使わなくてもあそこから石を落とすことで攻撃しちゃう、そんな便利な場所なんですね」

幕府の権威が揺らいだ場所

「桜田門外の変」の現場
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 次に向かったのは、大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の現場です。

山村さん
「あれが桜田門になります。それで、この場所が有名な桜田門外の変が起こった現場になります」

佐藤アナ
「まさに、ここで行われていたんですね」

山村さん
「暴漢に出合うわけですね。井伊の政治に不満な者たち、これが水戸浪士たち18人。これがここに集まって、井伊の軍勢も60人はいたんですよ。護衛にいたんだけど、18人の決死の思いの者たちのために襲撃されてしまって。そして井伊は首を取られてしまった」

水戸浪士ら18人vs井伊の護衛約60人
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 井伊側60人に対し、襲ってきた水戸浪士ら18人。人数で圧倒する状況で、なぜ井伊直弼は暗殺されてしまったのでしょうか。

佐藤アナ
「不意を突いたからこそ18人が勝てたんですか?」

山村さん
「当日は天候が悪くて雪模様だったんですね。すると警護の60人の兵たちは刀にカバーをつけている。刀が濡れないように。反撃に出るのにちょっと手間取ったと。それが敗北の要因とも言われていますね」

 襲われた井伊直弼の屋敷は、桜田門から500メートルほどのところにありました。

桜田門から500メートルほどにある井伊直弼屋敷跡
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山村さん
「こちらが彦根藩・井伊家の屋敷跡ですね。もとはこの屋敷は井伊家のものになる前は加藤清正の加藤家のものであって」

 加藤清正は豊臣秀吉・徳川家康に仕え、熊本城や江戸城、名古屋城の建築に携わった築城の名人と称された戦国武将です。しかし、清正の死後、加藤家は幕府から謀反の疑いをかけられ、屋敷は没収。その後、井伊家が引き継ぎます。

桜の井戸
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山村さん
「こちらの絵をご覧ください。こう見渡した時の絵なんだけれども、ここに井戸があるのはわかりますか?」

佐藤アナ
「はい、手前にありますね。井戸」

山村さん
「これが桜の井戸といって、名水の井戸として有名だった井戸ですね」

 以前、このコーナーで、塩気がある水が多い当時の江戸で、真水が出る貴重な井戸として重宝されたと紹介しました。

山村さん
「井伊家の人だけがこの井戸を使うのではなくて、ここを通行する庶民にも、この井戸の水を提供していました。庶民が井伊様のおかげだということで水を持ち帰った。そういうことがこの絵に描いてあります」

 江戸時代は「名水」として行列ができるほどでしたが、その後、東京に近代的な水道が通ったことで、飲み水の供給元としての役割を終えました。さて、2人は再び、皇居外苑へ向かいます。桜田門外の変と並び、倒幕のきっかけにもなったと言われる、もう一つの大きな事件が起きた現場です。

桜田門外の変と並ぶ大事件
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山村さん
「あちらに見えてまいりました。坂下門というんですね。この坂下門も幕末の事件現場になります。老中の安藤信正という人が浪士6人なんですけれども、襲撃されてしまいます」

 この2年前に桜田門外の変が起きたこともあり、幕府は警備を強化していました。それが功を奏してか、安藤信正は命を落とさずにすみました。

「背中に傷を負ってしまいました」
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山村さん
「安藤は命は助かったんですけれど、背中に傷を負ってしまいました。そうすると、武士というのは、背中に傷を負うと、至極武士にあるまじき後ろ傷といって、ちょっと不名誉なことになるんです。そんなことで安藤は、不名誉な傷を負ったことによって老中の職を解任されてしまいます」

佐藤アナ
「命を狙われて、背中に傷を負って…」

 権力者である老中の失脚。坂下門は、幕府の権威が失われるきっかけになった現場でもあるのです。

幕末の志士ゆかりの地へ

 2人は続いて、近代日本の夜明けはここから始まったともいえる、幕末の志士たちゆかりの地へ向かいます。

日比谷公園
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山村さん
「こちらが日比谷公園なんですが、ここも歴史的な場所なんですね」

佐藤アナ
「日比谷公園にもあったんですか!」

山村さん
「この辺が長州藩のあった場所なんです」

 現在の日比谷公園「自由の鐘」を中心とする辺りに、長州藩の上屋敷があったとされています。幕末、薩摩藩とともに明治維新を推し進める原動力となった長州藩は、高杉晋作を始め、木戸孝允や初代・総理大臣・伊藤博文らを輩出しました。

長州藩
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佐藤アナ
「まさにここで日本の未来を左右するような密談などが行われていたってことですか?」

山村さん
「まさにここで大事な日本の未来を決めるような、そんなことが行われていました」

佐藤アナ
「普段何気なく行っていた日比谷公園に、まさかそんな歴史があったとは驚きです」

 この長州藩上屋敷は、関ケ原の戦いから3年後の1603年、家康から与えられたのが始まりです。

1603年徳川家康から拝領
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山村さん
「実は幕末の元治元年に禁門の変というのを起こしてしまうんです。そのために朝敵という扱いになってしまって、つまり大きな罪を背負ってしまいました」

禁門の変
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 1864年、京都御所の周辺で長州藩軍と会津・薩摩など幕府側が衝突した事件。これをきっかけに、幕府は長州の征伐へ乗り出します。

山村さん
「長州藩の屋敷とか、そういったものが撤去・破壊されて更地にされてしまったという、そんな歴史が長州藩にあるんですね」

(2026年5月14日放送分より)

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