
幕末の歴史で人気の高い新撰組。実は、平隊士の給料は安く、隊服も多くの人がイメージする浅葱色ではなかったといいます。大河ドラマ「べらぼう」や「龍馬伝」などの時代考証を担当した山村竜也さんに、新撰組や日本開国の裏に隠された歴史の真相を聞きました。
新撰組の平隊士は「月2両」
まずは、新撰組にまつわる意外な事実です。
歴史作家 山村竜也さん
「新撰組の平隊士は実は安月給だったんです」
住田紗里アナウンサー
「高い給料をもらっていたと聞いたことがあるんですけど、違うんですか?」
山村さん
「実は違うんですね」
新撰組の名を一躍有名にしたのが「池田屋事件」です。京都の町に火をかけようと計画していた過激派浪士たちが集まっていた池田屋を新撰組が襲撃し、主要メンバーの討ち取りや捕縛に成功した歴史は有名です。
この活躍に対しては、幕府から報奨金が出ていました。記録によりますと、局長の近藤勇には30両、沖田総司ら主な幹部には20両、さらに役職のない平隊士にも15両が支払われるなど、非常に手厚い報奨金でした。こうした記録から、新撰組の給料は高かったと考えられてきました。しかし、実際はそうではなかったといいます。
山村さん
「従来は新撰組隊士は、みんな高給取りだったと言われていたんですけど、京都の三井両替店というところに、しっかりとした記録が残っていて、それによると新撰組平隊士は二両、月額二両の給料をもらっていたと」
安月給?実際は…
新撰組の主な仕事は、京都の町の警備です。暗い夜道での警備は、まさに命懸けでした。現在の感覚で、月給20万円でやりくりすると考えると、少し少ないようにも感じます。
住田アナ
「新撰組だと刀なども買わないといけないですよね。そう考えると、20万円では足りなくなりそうなんですけど?」
山村さん
「その場合は借金などを考えると思うけど、そういうことは新撰組では禁止されたんですね。新撰組の局中法度というのがあって、ここには『勝手に金策いたすべからず』とはっきり書いてあるんです」
しかし、日々の生活にそれほど困ることはなかったのではないかと、山村さんは考えています。
住田アナ
「お金が足りなくなることはなかったんですか?」
山村さん
「実は新撰組って家賃がかからないし、毎食の食費がかからない。全部、隊持ちなので。家賃と食費がかからなければ、月額二両でもなんとかやっていけたんです」
住田アナ
「二両を、ある意味好きなことに使っていいということですもんね」
山村さん
「そういうことですね。多くは飲み代に使っていたようですね」
一方、局長の近藤勇をはじめとした幹部クラスの隊士は、高給取りだったということです。
浅葱色ではなかった?
続いての歴史の真相は、新撰組の隊服についてです。
山村さん
「新撰組の隊服があったのですけど、どういったものかご存じですよね」
住田アナ
「青っぽい、あの服ですよね?」
山村さん
「そうです。当時、浅葱(あさぎ)色の地に袖に白い山型の入った羽織ですね。これを新撰組は隊服としていました」
新撰組といえば、多くの人が思い浮かべるのが、この浅葱色の羽織です。しかし、山村さんによりますと、新撰組の隊服は黒っぽい装束だったといいます。
山村さん
「新撰組の隊服は黒っぽい装束だったんです」
住田アナ
「黒ですか?全然印象にないんですけど、真っ黒になってしまう?」
これは、新撰組のイメージが大きく変わる歴史の真相です。
山村さん
「あの隊服は、実は赤穂浪士の隊服をまねたものなんです。赤穂浪士の場合は、黒の地に白い山型が入った、そういったものを着ていたんですね」
当時、赤穂浪士は「武士の鑑」といわれていた存在でした。元々武士に憧れていた農民出身の近藤勇らが、赤穂浪士にならって隊服を決めたということです。
隊服の評判は?
住田アナ
「赤穂浪士にならって作ったのなら、評判はよかったんですか?」
山村さん
「隊の上層部は評判いいだろうと思って作ったんですけど、隊士たちには、そんなに評判が良くなかったんです」
住田アナ
「意外です」
隊士たちからの評判がよくなかった理由は、隊服の成り立ちにありました。
山村さん
「実はあの衣装って、赤穂浪士が本当に吉良邸討ち入りの時に使った衣装じゃなくて、のちに『仮名手本忠臣蔵』という芝居になる、その芝居の衣装の時に、初めて山型のものが作られたんです。だから派手なんですね。あんな羽織を日常的に着るのは、やっぱり気恥ずかしいところがある」
住田アナ
「そんなに派手だったんですか?実物を見たことがないですけど」
山村さん
「実物は1着も現存していないんです」
住田アナ
「なぜ残っていないんですか?」
山村さん
「新撰組は京都で5年間働いたんですけど、そのうちの最初の1~2年ぐらいしか、その羽織は使っていなかったんですね」
住田アナ
「幻になってしまったんですね」
山村さん
「残っていたらね、私はいくら出しても買うんですけどね」
新撰組の隊服として知られる羽織は、実物が1着も残っていないということです。
「ほぼ慶喜が独断」
続いては、「大政奉還」にまつわる歴史の真相です。大政奉還といえば、その後の日本の歴史を大きく変えた、幕末最大ともいえる出来事です。
山村さん
「大政奉還は、わずか3人で決定されたんです」
住田アナ
「3人ですか?すごく少ないですね」
土佐藩から大政奉還の建白書が提出され、徳川慶喜が納得して大政奉還を受け入れることを決めました。この決定に関わったのは、慶喜のほか、老中の板倉勝静、若年寄格の永井尚志です。ただ、2人には相談しただけだったといいます。
山村さん
「ほぼ慶喜が独断で決めたんですね」
住田アナ
「1人で?そんな重要な決断を?」
山村さん
「慶喜は自分に自信があったんですね。頭がいい人間であると。そういうことを自分主導でやっていいと自負があって、だからその時も1人で決めたんです、事実上」
住田アナ
「でも、幕府側だった人たちがいるわけですよね。この人たちを説得しなくてよかったんですか?」
山村さん
「そういう者たちを話に加わらせると、反対意見も出たりして嫌だからということですね」
慶喜が10万石以上の大名に対して京都の二条城へ招集をかけたのは、大政奉還の発表からわずか2日前でした。しかも、大名家に伝えられたのは「国家の大事」ということだけで、大政奉還については伏せられたままでした。
山村さん
「みんなから意見を一応、募るよというんだけども、なかなかそんな場で意見を言う諸藩の代表者はいないわけです。そして、そのことは幕府の総意として決定してしまったんですね」
幕府は事前に把握
さらに、大政奉還の大きなきっかけの一つとなったのが、ペリー来航です。突如やってきた黒船に日本中が驚いたと、歴史の授業で習った人も多いかもしれません。
しかし、幕府はペリー来航を事前に知っていたといいます。
山村さん
「幕府はペリー来航を事前に知っていた」
住田アナ
「突然現れたわけでは、幕府にとってはなかった?」
山村さん
「幕府にとってはなかった」
住田アナ
「知っていたんですか?」
山村さん
「オランダ商館のほうから事前に情報が来ていて、アメリカ海軍の使いが来るということを、事前に幕府は把握していた」
ペリーの年齢や乗組員の人数まで、実に詳細な情報だったそうです。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四盃で夜も寝られず」。これは、ペリー来航の際の世の中の混乱と、幕府の慌てぶりを皮肉った有名な狂歌です。しかし、幕府は事前に情報をつかんでいながら、十分な対策を取れなかったのでしょうか。
山村さん
「ペリー来航の数年前にアメリカは1回来ていました。その時は強硬なことは言わずに、あっさり帰ったんです。だからペリー来航の時も帰ってくれるんじゃないだろうかという淡い期待が幕府にはあったんです」
住田アナ
「少し読みが甘かったんですかね?」
山村さん
「結果的にですね。幕府にしてみれば、ペリー艦隊が強硬なことを言ってきた。このことは確かに驚きである。一般庶民にしてみれば、何も聞かされていないわけだから、黒船が4隻やってきたことにびっくり。そういう意味で、両方含めてペリーの来航は、びっくりな出来事だったと言うことができるんですね」
(2026年9月9日放送分より)
この記事の画像一覧
