地震が秀吉と家康の運命を変えた? 天下人を揺さぶった大地震

地震が秀吉と家康の運命を変えた? 天下人を揺さぶった大地震
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 今も突然起こる地震。今回は地震の歴史に注目します。秀吉と家康、2人の天下人の運命を変えた3つの大地震をひも解きます。

【画像】ナマズと地震を最初に記録に残したのは秀吉?

家康討伐を断念させた天正地震

天正地震(1586)
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 豊臣秀吉と徳川家康の運命を分けたとされる天正地震。秀吉が家康を攻める直前に起きたこの地震は、城を倒壊させ、家康討伐の計画を断念させる一因になったといいます。

 天正地震は1586年に発生し、マグニチュード8クラスと推定されています。活断層による直下型地震といわれ、近畿地方から北陸地方にかけて大きな被害をもたらしました。地震の2年前には、小牧・長久手の戦いが起きていました。秀吉軍は10万人、家康軍は約1万7000人と大きな戦力差がありましたが、秀吉は家康を討ち取れませんでした。その後、秀吉は四国平定や関白就任を経て力を付け、家康との決戦に向けて準備を進めていたといいます。

地震が起きて大阪に帰った
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藤田医科大学特命教授
リベラルアーツセンター長
本郷和人さん

「坂本城。ここにどうも秀吉はいたみたいなんですよ。だけど、地震が起きたので逃げ出して大阪まで帰っちゃったということで、家康攻めは幻に終わっちゃったんですね」

地震で重要拠点が破壊され諦めた
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 秀吉は大垣城に兵糧を備蓄し、先陣を山内一豊が務める予定だったとされます。しかし、長浜城も倒壊。家康討伐の重要拠点が地震で被害を受けたため、秀吉は攻めるのを諦めざるを得なかったといいます。その後、秀吉は武力による討伐ではなく、妹の旭姫を家康の正室にするなど、外交に切り替えました。

 本郷さんは、地震がなければ家康が滅ぼされていた可能性もあるという見方について、「秀吉はマジで戦うつもりだったみたいで」と話します。

講和が遠のき再出兵へ

 地震は、当時の人々の政治の捉え方にも影響しました。天の神が怒って地震を起こすと考えられていたため、政治が悪いからではないかと受け止められていたといいます。

天の神が怒って地震を起こすと考えられていた
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本郷さん
「地震というのは、天の神様が怒るんだというふうに真面目に考えていたんですよ。だから、どうしておこるんだっていうと、政治が悪いってなるんですよね」

層塔型は頑丈な土台が必要
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 城の建築方法にも変化があった可能性があります。天守の下部をしっかり造り、その上に物見台のような部分を載せる望楼式に対し、下から上まで層を重ねるように造るのが層塔式です。本郷さんは、層塔式を考案したとされる藤堂高虎が地震を何度も経験し、頑丈な天守を建てるため土台を強固にしようと考えた可能性を指摘します。

慶長伏見地震(1596)
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 天正地震から約10年後の1596年には、慶長伏見地震が発生しました。マグニチュード7規模と推定される直下型地震で、近畿地方の広い範囲に被害が出ました。この地震は、朝鮮出兵を巡る講和にも影響したといいます。秀吉は伏見城を拠点に有利な形で講和を進めようとしていましたが、地震で城が倒壊。講和がまとまらず、2度目の出兵につながったと本郷さんは解説します。

本郷さん
「伏見城の立派な建物をバックにして、有利な形で講和をしようと思って準備していたら、伏見城がなくなっちゃったわけで。そうなるともう会議もできませんよね。それで講和がどうもうまくいかんということになり、2回目の出兵ってなっちゃったんですね」

 秀吉は倒壊した伏見城を再建しましたが、民衆の不満を招いたともいいます。人々の暮らしより権威の立て直しを優先し、地震で倒壊した指月伏見城よりも豪華な木幡山伏見城を築いたためです。さらに、地震では方広寺の大仏も崩れ落ちたとされます。

秀吉は大仏に弓矢を打ち込んだ
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 本郷さんによりますと、秀吉が「自分の身も守れないような大仏が人々を救えるわけねえぞ」と怒り、弓矢を大仏の眉間に射込んだという話も残っています。

地震対策を進めた家康

徳川家康が天下人に
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 慶長伏見地震の後、江戸時代の和歌山藩の史料には、豊臣政権はもうだめで、徳川家康に天下人になってほしいという人々の声が記されているといいます。秀吉が亡くなった後、家康は江戸幕府を開きました。

慶長地震(1605)
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 1605年には、南海トラフ地震といわれる慶長地震が発生。マグニチュードは7.9と推定され、津波が千葉県の犬吠埼から九州に至る太平洋沿岸を襲いました。家康は将軍職を息子の秀忠に譲り、駿府に移りました。従来は徳川家が将軍職を継ぐことを示すための禅譲と説明されてきましたが、本郷さんは、地震への責任を取る意識もあった可能性に触れています。

地震対策も?
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 また、家康は地震対策を講じていたと考えられています。加藤清正らに清洲城と城下町を熱田台地の北西端へ移し、名古屋城を築くよう命じました。地盤の固い場所を選んだことも、移転の大きな理由の一つだったと本郷さんは話します。

秀吉の手紙に「ナマズ」

ナマズと地震に関する書状に秀吉
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 地震とナマズを結び付けた記録にも秀吉が登場します。天正地震で被災した秀吉が、京都所司代の前田玄以に送った手紙には、「ふしみのふしん、なまつ大事にて」と記されていました。

 この文書は、伏見城の建築にあたって地震に備えるよう求めたものとされます。秀吉が手紙にナマズと地震を結び付けて記したことから、ナマズと地震を記録に残した最初の例といわれています。

(「グッド!モーニング」2026年9月30日放送分より)

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