
日本の名城を手掛けた藤堂高虎と加藤清正。対照的な2人の城の工夫と、家康が進めた江戸の町づくりに迫ります。
家康以前の江戸城 日比谷は海
江戸城は徳川家康が一から築いた城ではありません。戦国時代に太田道灌が築いた城を基礎に、家康が江戸の街を整備し、関ヶ原の合戦後には全国の大名を動員して大改修を進めました。築城名人、藤堂高虎と加藤清正による、異なる城づくりの工夫を紹介します。
かみゆ歴史編集部代表 滝沢弘康さん
「江戸城は家康が一から作った城ではないんですね。元々は戦国時代、関東の戦名人とも呼ばれている太田道灌が始めに築いています」
道灌が築いた江戸城の復元イラストには、城のそばに大きな入り江が描かれています。日比谷入江と呼ばれ、海の一部が江戸城のすぐ近くまで入り込んでいたといいます。
滝沢さん
「こちらは日比谷入江と言いまして、海の一部が江戸城の真下まで入り込んでいたんですね」
家康は1590年、小田原の役の後、豊臣秀吉の命令で江戸に入りました。城の増築より先に江戸の都市整備を進め、その一環として日比谷入江を埋め立てたとされています。
関ヶ原の合戦に勝利した後は、全国の大名に号令をかけて江戸城を大改修する「天下普請」に取り組みました。高虎や清正も改築に参加し、築城の技術が発展していきます。
高虎 城の守り方「型」に
高虎は今治城や宇和島城などを築き、城づくりの方法を形式化したとされています。平野に四角い曲輪を重ねる造りは、自然の地形に合わせて複雑になりがちだった従来の城と異なり、築城しやすく、工期も短縮できるのが特徴です。
また、城は軍事・政治の拠点であるだけでなく、経済の中心でもありました。高虎は城下町の発展も考え、城と町を一体で整備したといいます。守りの要となったのは、高い石垣と広い水堀です。攻め手が城の入口に向かうと、2つの門と櫓などで囲まれた「枡形虎口(ますがたこぐち)」が待ち受けます。
滝沢さん
「その枡形に踏み込んでしまったら最後。四方八方から鉄砲で狙われてしまって、十字砲火に遭うんですね」
枡形虎口は徳川時代の城の基本的な構造となり、江戸城の大手門や桜田門にも採用されました。
天守も、高虎は建物の上に望楼を載せる複雑な「望楼型」に対し、下から順に積み上げる「層塔型」を取り入れました。規格をそろえることで、建築費を抑え、工期を短くできたといいます。
高い石垣や広い水堀、枡形虎口など、守り方も型として整えられました。そのため、別の大名が城に入っても同じ方法で守ることができたとされています。一方、熊本城は清正でなければ守れないほど独自性の高い城だといいます。
“最強”熊本城 清正の罠
最強の呼び声が高い熊本城は、高さ20メートルにも及ぶ石垣が特徴です。上に行くほど垂直に近くなる形は「武者返し」と呼ばれていますが、初めから敵を登らせないためにつくられたわけではないといいます。
滝沢さん
「技術的にそこまで発達していないなかで、基礎部分は末広がりに緩やかな石垣しかつくれなかったんですね」
清正は、石垣に囲まれた登城道を屈曲させ、枡形が連続するような構造も築きました。両側には高さ10メートルを超える石垣があり、迷路のような通路は本丸御殿の下にも続いています。地震の影響で、現在も通れない場所が多く残っています。
籠城(ろうじょう)への備えも徹底していました。朝鮮出兵の蔚山城の戦いで過酷な籠城戦を経験した清正は、土塀にかんぴょうを練り込み、城内に100を超す井戸を設けたとされています。
イチョウも植えられ、非常食として利用できるようにしたといいます。熊本城のイチョウを巡っては、清正が「このイチョウが天守ほどの大きさになれば大戦争が起こる」と予見めいた言葉を残し、木が大きくなった明治の初めに西南戦争が起きたという伝承もあります。
(「グッド!モーニング」2026年10月7日放送分より)
この記事の画像一覧
