Fリーグの中で唯一の完全プロクラブである名古屋オーシャンズ。すべての試合で勝つことを義務付けられた“常勝軍団”で、GKという重要なポジションを任されているのが関口優志だ。
フットサルには有名な格言がある。それが「GKが試合の50%を決める」というものだ。5人でプレーするフットサルではGKが勝敗に関わる割合がサッカーよりも大きくなる。
サッカーでは1試合に打たれるシュート本数はせいぜい15本から20本ぐらい。だが、フットサルの場合はその倍以上、時には50本以上のシュートを打たれることもある。単純にシュートが飛んでくる回数が多いわけで、GKがそれを止められるか止められないかは、ダイレクトにチームの勝敗につながる。
関口がサッカーからフットサルに転向したのは18歳のときだ。北海道出身の関口は高校卒業後に地元のFリーグクラブのエスポラーダ北海道に入団。すると、1年目から正GKに大抜擢されたのだ。
一般的にGKは経験が必要とされる。細かい守り方の違いはもちろん、味方の選手へコーチングもしなければならない。そのため、多くのチームはGKには30歳以上のベテランを起用している。だが、北海道の小野寺隆彦監督は「すごいバネがある」関口のポテンシャルにかけた。
いわば“初心者マーク”をつけたままピッチに立っていた関口は、持ち前の反射神経でスーパーセーブを見せる一方で、信じられないようなポカを何度もやらかしてしまう。GKの出来が勝敗に直結する分、自らのミスで試合を落としてしまうことも少なくなかった。
だが、Fリーグというトップレベルの中で試合に出続けることは、何よりの栄養になった。そうやって、“サッカーのGK”だった関口は“フットサルのGK”へと変化を遂げていった。
Fリーグ3年目の2013年、関口はミゲル・ロドリゴ監督が率いる日本代表に初招集された。翌年には、ウズベキスタンで開催されたAFCフットサル選手権のメンバーにも選出される。
とはいえ、当時の関口のポジションはGKの3番手。W杯3大会に出場した川原永光、バルドラール浦安の守護神・藤原潤が厚い壁として立ちはだかっていた。
AFCフットサル選手権で日本は勝ち上がり、決勝進出を果たす。アジア王者まで、あと1勝。優勝を決する大一番で、ミゲル監督は博打に打って出る。なんと、それまで1分も出場していなかった関口を、決勝戦でスタメン起用したのだ。
「関口の若さや勢いが試合にいい影響をもたらしてくれると思った」
イランはアジアでは突出した実力を持つ。そんな相手に勝つためには、普段以上の力を出さなければいけない。ミゲル監督がキーマンに選んだのが、23歳の最年少GKだった。
初めての試合出場が、優勝のかかった大一番。しかも、相手はアジアで最多優勝回数を誇る強豪国のイラン。ガチガチに緊張して実力をまったく出せなくてもおかしくないだろう。
しかし、フタを開けてみれば試合は“関口劇場”となった。抜群の反射神経でイラン選手の強烈なシュートを何本も止めてみせ、2-2のまま勝負の行方はPK戦へもつれ込む。ここで関口は1人目を皮切りに3本連続ストップという離れ業を演じて、日本を史上初の大会連覇に導いたのだ。
北海道のサッカー少年だった頃、関口が憧れたのは日本代表としてW杯4大会に出場したGK川口能活だった。179cmとGKとして小柄ながら、日本代表のゴールマウスを守る川口に自分自身を重ねた。
「川口選手はGKとしては身長が大きいほうじゃないと思うんですよ。それなのに日本代表の正GKをしている。僕もそんなに背が大きいほうじゃないので、『僕も日本代表の正GKができるんじゃないか』いう希望を持てたんです」(フットサルナビより)
川口といえば、2004年のアジアカップ準々決勝ヨルダン戦は、今もなお語り継がれる。中村俊輔、三都主アレサンドロと1、2番目のキッカーが立て続けに外し、絶体絶命に追い込まれた状況の中で、川口が4人目から6人目まで連続ストップ。川口の神がかり的な活躍でヨルダンを下し、日本は準決勝、決勝を制してアジア王者になった。
川口と同じように“日本の救世主”となった関口は、23歳の若さでありながら、日本代表でも正GKを任されるようになっていく。そして16年、地元の北海道を離れて、さらなるレベルアップを求めて名古屋での挑戦を決断する。
「子供に憧れられるようなGKになりたい」
関口はいう。自分が川口から希望をもらったように、自らのプレーで子供たちにGKというポジションのおもしろさに気づいてほしい。爽やかな笑顔の裏に熱い想いを持って、関口はゴールを守り続ける。
関口選手が所属する名古屋オーシャンズは2日にシュライカー大阪、3日にバルドラール浦安と対戦し、その模様はAbemaTV(アベマTV)で生中継される。
文・北健一郎(futsalEDGE編集長)