
今月3日、独演会のために宮城県を訪れたウーマンラッシュアワーの村本大輔。東日本大震災から7年が経った気仙沼の街を歩いた。
造船所のタンクから流れ出た重油、海底のヘドロと共に湾に押し寄せた津波は、一瞬で気仙沼の街を飲み込んだ。さらに津波に混ざった油などの影響で火災が発生、一面焼け野原となり、壊滅的な被害を受けた。街の中心に位置する地域では、今も土地のかさ上げ工事が行われている。
震災の"語り部"として活動しながら、大正8年創業の「すがとよ酒店」を切り盛りする菅原文子さん(68)は『負げねぇぞ気仙沼』という特別なお酒を販売している。「私が書いたラベル。震災で色々あったけど、何とか這い上がりたいと思って書いた」。菅原さんがこの地酒を販売し始めたのは、震災からわずか2か月後のことだった。力強いラベルは話題を呼び、復興のシンボルとなった。

語り部としての菅原さんが伝えているのは、辛く、壮絶な体験だ。「主人と私と、一つ屋根の下にいたんだけれども、お父さんが上がってこないので玄関を降りて"お父さん、早く早く!"と迎えに行った。主人の手を取った瞬間、後ろからものすごい波が来て、かぶっていた帽子がパーンと飛んで、すっぽり波に飲まれた」。結婚して38年間、夫の豊和さんは行方が分からなくなってしまい、いつも一緒に過ごしていたお店も全壊した。

震災の翌日には息子たちとプレハブを建て、テントを張り、仮設店舗で再出発した。それから5か月後、菅原さんは手紙を書いた。「どんなに願っても帰ってこれないのか。この街のどこかにいると信じているのに。けれどここは夫の大好きな故郷。生まれた街。きっといる。早く帰ってきて」。生きて帰ってきてほしいと願う一方で、せめて亡骸だけでもという願いだった。「いつも2人で。夫婦であり、また経営する2人であり、全てお店の中での38年間だったので」。
震災から約1年3か月後、菅原さんたちが住む地区で最後に解体された市営アパートから、豊和さんの遺体が発見された。「全身遺体で発見された。帰ってきてくれて本当にありがとう」と手紙に書き綴った。

そして菅原さんは大きな決断をする。夫の遺体が発見されたまさにその場所で、すがとよ酒店を新たにオープンさせた。「姿はないけれど、いつも一緒に暮らしているという感じで」。店舗には地域住民が交流できる憩いの場も設けた。「悲しかったけど、それがたくさんの人と出会って、その悲しみが自分の生きる力になったりエネルギーになったり。人はやっぱり会って話をして、笑いあったり語りあったりすると、そこで何かがつながる。それをやっぱり大切にして、前を向いて、成長というか何かを思わないといけないなと思うようになった」。

菅原さんの話を聞いた村本は「この酒屋さんには今まで見たことのない、びっくりするような物語がちりばめられている。僕はこの話を東京で人に喋る」と話した。
■逆転の復活を遂げた水産加工会社
次に村本が訪れたのは、気仙沼でいち早く"復活"を遂げた「阿部長商店」だ。9つの工場を持つ気仙沼最大の水産会社で、サンマの取り扱い量は日本一だという。主な事業は水産加工で、さんまやサバなど、気仙沼特産の魚介類を加工し、中国やロシアへも出荷している。

しかし東日本大震災で9つあった工場のうち8つが全壊、壊滅的な状況に陥った。震災で被害を受けた企業の多くが従業員を解雇し倒産していく中、阿部長商店の従業員たちもまた覚悟を決めていた。そんな窮地を立て直したのが阿部泰浩社長だ。約800人の従業員を誰一人解雇せず、復活することを誓った。
「従業員の中には自宅が失くなったり、家族や身内が亡くなったりした人が結構いました。そんな人たちを仕事なしにしてはいけないだろうと、そういう思いで解雇せずに操業を続けるというのを早い時点で決めた。せめて希望は無くさないと」。

危機を乗り越えるヒントは、震災後に気仙沼を訪れていたボランティアたちの言葉にあった。「気仙沼のために何かを買いたい、お土産にしたいという時に、気仙沼のお土産になる商品がなかったんですよ」。震災から1か月後の、まだ電気も水道も通っていない工場で、気仙沼の特産品である"ふかひれ"を使用したスープの開発に着手した。

それから3か月後、スープのレトルト商品が完成、累計350万パックを売上げる人気商品に成長した。会社の売上高は震災前と同じ水準まで回復した。そして今、同社はイスラム教徒向けのハラル食品対応工場を建設。魚肉ソーセージを製造し、東南アジアや中東への出荷を計画。販路を拡大することで、雇用を増やすことができると考えている。気仙沼の復興に重要なのは、水産業の発展という思いからだ。「元気になることが街にとって一番いいこと。まずは水産から気仙沼を元気にしたい」。
■「3月は東北、4月は熊本について、いっぱい喋る時期にしよう」
震災から7年。明治大学准教授の飯田泰之氏は「被災地では新しくかさ上げした土地に街がどんどんできている。街によってはライブハウスを作って、若者がイベントをする場所もできた。そうした話は地元のニュースでは取り上げられているが、それ以外ではどうしても紋切り型の報道が多くなってしまう。現地の"こんなに盛り上がっている。ビジネスが始まっている"という明るい側面を見せていくべき時だ」と話す。

気仙沼つばき会事務局の小野寺紀子氏は「気仙沼に来て頂ければ、7年経ってもまだこんななんだとも思うだろう。防潮堤の問題もある」と話す一方、「皆さんからアイデアをいただいて、できるだけ外と関われるような事業や活動がどんどん増えていくと思う」とも語った。

取材を終えた村本は「5月になったらどうせ違う話題を報じるようになってしまう。だから3月は東北、4月は熊本について、いっぱい喋る時期にしよう」と訴えかけていた。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)


