栗城史多(35歳)が、自身8度目となるアタックでエベレスト登頂に挑む。
2009年以降、これまで7度挑み続け、いずれも届かなかった8,848メートルの頂き。2012年には重度の凍傷によって両手で計9本の指を失っている。それでもなぜ、挑み続けるのか。無謀な試みではないのか。様々な賛否がある中で行われる今回のアタックでもまた、栗城は「単独・無酸素」へのこだわりを捨てていない。
公益社団法人日本ネパール協会理事やNPO法人山の自然学クラブ理事長などを務め、自身7度目の挑戦にして、57歳の時に初めてエベレスト登頂に成功した登山家の大蔵喜福(67歳)氏は、今回の挑戦について意外な見方を示した。
「8回目のエベレスト挑戦を揶揄する人もいますが、物事の本質は彼を批判することではなく、『どう理解するか』だと考えています。私が理解する彼の面白さは、彼が『ただの登山家ではない』ところにあります」
「ただの登山家ではない」彼の正体は一体何か――。大蔵氏は続ける。
「若い世代の人たちを中心に、なぜ彼は共感を集めるのか。それは、何はともあれ『行動を起こしている』こと。色々な意味で『私たちとは違う』ということが、それだけで面白い。『人間として面白いから応援しましょう』という流れは、ごく普通の事だと思います。やりたいことを突き詰めるという行為は、人間にしかできない。彼がそれを突き詰めた結果が「たまたま山だった」という理解です。言うなれば、彼は『人生の芸術家』。山という壮大なキャンパスに、山登りを通じて、自分の思いを描こうとしているだけ。その結果が曲がりくねっていようが、下を向いていようが、そんなことはどうでもいい事なんです」
「登山道」を押し付けるから批判の対象になる
栗城に「登山家の枠を押し付ける」から、無用な批判が生まれる。例えば、1枚の絵を描くとき、その描き方や順序などは、描く人間の自由。そこを否定したら、世界から芸術家が消えてしまう。この「自由」こそが、登山の醍醐味だと大蔵氏は語る。
「登山は観客のいないスポーツ。だからこそ好きに、自由にできる。それが登山の醍醐味です。山から自由を取ったら、山に登る意味だって無くなってしまう。そこにはもちろん、自然に対するモラル、自己責任が問われますけどね」
とはいえ、今までの経過を受けて「下山家」や「登頂する気があるのか」という批判があることは否定できない。そのことについて、同じく山に魅せられた一人として、どのように考えているのだろうか。
「他人に何を言われようと、その部分がブレない。そこに彼の人間性と価値がある。だから僕は、何度失敗してもいいと思っていますよ。『ここから登れ』とか『もたもたやってるんじゃない』とか、もはやそんな言葉は彼の目的からしたら何の意味も成しません。逆に『もっといい絵を描けよ』という叱咤なら理解はできる。だって、そういう境地に至っている登山家であれば、彼の批判をしたりしませんからね」
自分の人生をエベレストというキャンパスに描く。それは登頂を果たすことより、ある意味で難しいことかもしれない。大蔵氏は最後に、嬉しそうな表情でこう続けた。
「思いを突き詰め、登頂という結果を得た後、彼の中にどんな感情が芽生えるのか。登頂の可否と同じくらい興味が湧いてきますね」
天候や体調にも左右されるが、山頂へのアタックは21日(月)を予定している。8度目のチャレンジの結果、大蔵氏の問いに対する答えが、AbemaTVで21日16時から放送される 『生中継! 9本の指を失った登山家・栗城史多のエベレスト8度目の挑戦』で 明らかになる。
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