平成30年大相撲名古屋場所が7月8日に初日を迎えた。一体誰が、優勝賜杯を抱くことになるのか。15日間の熱い闘いから目を離すことができない。
名古屋場所は名古屋城のすぐそばにある愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)で開催される。本場所に足を運ぶことはもちろんだが、せっかく相撲観戦に来たのならば、少し時間に余裕を持って行ってみてほしい場所がある。名古屋場所開催前には熱田神宮で横綱土俵入りが行われているが、この熱田神宮から徒歩約10分弱のところに、法持寺というお寺がある。この法持寺を、幕内最高優勝回数24回、50場所連続勝ち越しなどの輝かしい記録を持つ第55代横綱であり、前日本相撲協会理事長の故・北の湖氏にまつわる聖地巡礼の地としてご紹介したい。
かつて「憎らしいほど強い」「強すぎておもしろくない」と相撲ファンが口にしたほど強かった昭和の大横綱・北の湖。この北の湖が現役時代に所属していた相撲部屋が三保ヶ関部屋である。三保ヶ関部屋は名古屋場所になると、この法持寺に宿舎を構え、力士たちは日々稽古で汗を流した。北の湖は、自身が13歳のときに「北海道南部に怪童あり」との噂を聞きつけた多くの相撲部屋から熱心に勧誘され、おかみさんが手編みの靴下を送ってくれたことで三保ヶ関部屋に入門を決意(※当時は中学生からの入門もできた)したが、母は入門を反対していたのだ。
しかし本人の強い意志に負け、渋々入門を許可すると、そのときに「強くなるまで帰ってくるな」と言い、後年北の湖は「現役時代は、あの言葉があったから、がんばれました。どんなときでも耐えることができたんです。うちの母ちゃんは、えらかったよ。13歳の息子に帰ってくるなって言えたんだよ。自分が子供を持つようになって分かるけど、とてもじゃないけど自分の息子に『帰ってくるな』なんて言えないよ。あのとき、どんな思いでオレに、あの言葉を言ったのかと思うと、すごいなぁって思うよ。相当な覚悟がなければ言えませんよ」と述べている。
そして21歳2ヶ月で挑んだ昭和49年の名古屋場所で惜しくも優勝を逃すものの、本場所後に史上最年少での横綱昇進を決定させた。この記録は今もなお破られていない。昭和63年に建て直された法持寺ではあるが、三保ヶ関部屋が宿舎としていた以前の本堂で伝達式が執り行われた。その直後に北の湖は、宿舎にある赤電話を使い「強くなるまで帰ってくるな」と言った母に電話を掛け、こう話したという。
『うん。ほんまに横綱になったんや。母ちゃん。』
現在も法持寺には、そのときの言葉を記した碑が残されている。この他にも法持寺には2つの碑があり、北の湖が中学生の新弟子時代から横綱時代まで稽古に励んだ土俵の場所に、北の湖が揮毫した『土俵の跡』の碑、昭和59年の名古屋場所で幕内通算800勝を記録したときに残した言葉、
「どんなにつらくても 何と云はれようと 相撲をとるのは心 自分が駄目だと 思ったら とれるものではない」
は碑となり、今も大切に残されている。
また、北の湖が初めて名古屋場所で優勝した昭和53年の千秋楽でのインタビューでは「最初に優勝を誰に知らせたいですか?」という質問に対して「いつもお世話になっているお寺の和尚さんに知らせたい」と答えていたり、引退後は一代年寄北の湖として独立をしたが、毎年名古屋場所前には挨拶に訪れていたことから北の湖の法持寺に対する思いの深さがうかがい知れる。
こんなエピソードもある。当時、横綱北の湖が本場所に向かう姿をみた和尚は、ある小雨の降る午後3時頃、境内で大銀杏を結い、紫色の着物に蛇の目傘を差し、厳しい目で真一文字に口を結び、本堂から出てきた北の湖から、とてつもない威厳を感じ、思わず拍手で見送り、まるで千両役者を見ているような気分であったという。法持寺には『北の湖語録』の記念碑の他に、三保ヶ関部屋力士が使ったテッポウ柱や力士にまつわる数多くの品々が今も大切に残されている。
史上最年少で横綱に昇進した北の湖を生んだ母なる地である法持寺。ここを聖地巡礼の地として、本場所観戦前に行かれてみるのも粋な観戦方法の一つかもしれない。【相撲情報誌TSUNA編集長 竹内一馬】
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