太平洋戦争が終わる1年半前。北海道沖で、旧陸軍の輸送船がアメリカ軍の潜水艦に撃沈された。しかし、その悲劇は当時の法律により家族にも知らされなかった。戦後74年、海底に葬られた真実を追った。
■「"北方"、それだけなんですよね」
杜の都・仙台。伊達政宗の騎馬像が有名な仙台城跡には、かつて陸軍第42師団司令部があった。1944年2月に仙台で編成され、福島や新潟、東京からも将兵が召集された部隊だ。
宮城県大崎市に住む沼田勝さん(75)の父・三壽さん(当時26歳)もここに所属していたが、沼田さんが生まれる半年ほど前に戦死した。「あの当時、出征ということは死を意味しているから。生きて帰って来られないと、もうベロンベロンに酔っ払って行ったらしいね」。
そして3か月後、家族に"北方方面作戦輸送中敵ノ攻撃ヲ受け三月十六日戦死"と記された「戦死者内報」が届いた。「"北方"、それだけなんですよね。北方って、北の方だべな。北ってどこなんだべなとしか」。
なぜ部隊は北の海へと向かったのか。宮城県庁の一室に、その疑問を紐解く手掛かりがあった。三壽さんの「戦没者調査票」には「経緯145度、北緯42度 輸送作戦中戦死(日連丸)」と書かれていた。「日連丸」は日本軍に徴用された民間の輸送船で、北海道厚岸町の沖合89キロの地点で沈没していた。
同町に隣接する釧路市の海運会社の記録では、3月16日午後4時、日連丸などの輸送船4隻が出港したことが確認できる。しかし翌日午前7時に戻ってきたのは3隻だけで、日連丸に関する記載はなかった。このことを噂した海運会社の関係者が、軍事上の秘密の探知や漏洩などを禁止する法律「軍機保護法」に違反した容疑で憲兵に逮捕され、釧路刑務所に送られたこともあったという。ちなみに、同法に違反した場合の最高刑は死刑だ。
北海道立図書館が所蔵する沈没翌日の新聞記事も「退路完全に遮断」「八十一師も袋の鼠」「殲滅最高潮へ」など、日本軍の快進撃を伝えるものばかりで、そこに"日連丸沈没"の文字はなかった。
「親父が乗る予定だった船は沈まなかったらしいんです。"こっちに乗れ"って言われて、ポンっと移った船が沈んじゃったんだ近くの人たちも、なんで戻ってきた船にうちの親父がいないのかと騒いでましたからね」(勝さん)。こうして、日連丸の悲劇は長い間、葬られることになった。
■「目と目を合わすこともできなかった」
東京・目黒にある防衛省防衛研究所が所蔵する「船舶の遭難部隊整理資料」によると、日連丸で戦死した第42師団の将兵は1825人。船員や航空整備隊なども合わせると、およそ2800人が犠牲になったとされている。しかし乗船者名簿はなく、全員の名前は今も分かっていない。
厚岸町にある正行寺には、流れ着いた遺体や生き残った将兵が収容されていた。本堂は当時のままだという。住職の朝日芳史さんの父は遺体を供養、将兵に食事を提供したが、言葉はほとんど交わさなかったという。「目と目を合わすということもできないし、まったく何が起こったかも分らない状態だったと父親は言っていました」。
しかし38年後の1982年、釧路市から「日連丸という輸送船が撃沈された。この海域でそういうことっていうのはあったんでしょうか」という連絡が入る。「父親に"そういうことあったの?"と聞いたら、"あった"という話になったもんですから」。朝日さんの父が釧路市役所を訪れ、遺族に知っている事を全て話したことで、日連丸の悲劇が少しずつ知られるようになっていったという。
東京都多摩市に住む上杉躬佐子さん(75)が、日連丸に父・昇さん(当時26)が乗っていたことを知ったのは4年前のこと。娘の華澄さん(38)がインターネットで情報を探したことがきっかけだった。「遺骨も上がらないまま今日まできたということがずっと気になっていて。ある時、ふと思い立って検索をしてみたところ、どうやら日連丸に乗っていたようだということ亡くなった日と亡くなった場所から分かって」。
「戦争で亡くなったっていうのは小さい時から言われていたから、朝起きたらお父さんに挨拶、何か頂き物したら"頂いたの"って報告していましたね。静かでとても優しいと聞いていました。でも、特別な供養もしないで、遺族会のことも知らないで。考えたら本当に何もしてこられなかったのが申し訳ないなと思いました戦争は忘れられていく、私たちの時代では関係のない世界になっていますけども、やっぱり心の傷はずっと続いている」(躬佐子さん)。
■最後の生存者が語った"真実"
日連丸に乗船していた人のうち、奇跡的に助かったのはわずか45人。そして当時を知る最後の一人が東京にいることが分かった。第42師団の輜重連隊で小隊長を務めていた石川一義さん(取材当時、96)だ。「不意打ち。まさか、あんなに本土に近い所に敵の潜水艦が来ているとは思わなかった」。
攻撃したのはアメリカ軍の潜水艦「トートグ」。米国立公文書所蔵の報告書には「レーダーコンタクト。45度の方向。1万9000ヤードの範囲で追跡。敵は7隻ほどの輸送船」と記されている。
石川さんの証言とアメリカ軍の記録から、当時の状況が浮かび上がってきた。
仙台から小樽まで鉄道などで移動した第42師団は3月8日、日連丸に乗って小樽港を出港、津軽海峡を通って釧路港に入り、船団を組む準備を整える。そして16日午後4時ごろ、他の輸送船3隻とともに海軍の駆逐艦「霞」「白雲」「薄雲」の3隻に護衛され釧路港を出港した。同日午後6時40分ごろ、トートグのレーダーが船団を発見。暗闇と霧の中、水面下で接近したトートグが船団に向け魚雷を4発発射。このうち2本が日連丸に命中。
「"装具はいいから甲板に出ろ!水だ!"って言われて。私が出てから、ほんの少しで沈没したんですよ。船の前の方が上がってきたから、このまま浮いていれば良いなと思ったら、スーッて沈んじゃった。初めは大勢が泳いでいて寒いから歌なんか歌っていた。だんだん、その声が少なくなっていった。浮いている物が流れてくるようになって、そこの中に救命いかだが流れてきたから、私はそれに乗ったわけです」。ほとんどの人が極寒の海で亡くなる中、いかだにしがみ付いていた石川さんは、翌朝になって薄雲に救助された。この攻撃で白雲も沈没、270人全員が犠牲になった。
船団が向かっていたのは、千島列島中部にある「ウルップ島」だった。「"千島防衛"ですよ。本土を防衛しなくちゃならないですから」と石川さん。
■日連丸が北方に向かった背景
「数千人が戦わずして海没しちゃったわけでしょ。戦意喪失させるような話だから、絶対機密、と」。そう話すのは、千島列島の歴史を研究する岩手県立大学の黒岩幸子教授だ。「アッツ島にアメリカ軍が飛行場を造って爆撃してくるようになるんですよね。そこで慌てて千島を強化しなくちゃいけないと。それで1943年の"絶対国防圏"の第一に千島が出てくる。ここが破られたら終わりなので死守しなくてはいけないと。結果、この周辺で民間人も含め、2~3万人が沈んでいる」。
千島列島とアメリカ本土の間に位置するアッツ島。日本軍は1943年5月、一時は占領していたこの島でアメリカ軍に敗北を喫する。これにより戦況は転機を迎えた。アメリカ軍の作戦に詳しい早稲田大学の浅野豊美教授は「アメリカはアッツ島に造った陸軍基地を拠点として、北から攻め入るプランを相当、真剣に検討するんですよね」と説明する。
米国立公文書館で、このことを示す資料が見つかった。当時アメリカ軍が作った地図には、千島列島の各島の兵力、航空基地の情報などが記されていた。更に日本軍の通信暗号を傍受・解読した記録もあり、輸送船が16日午後4時に3隻の護衛艦と出港すること、ウルップ島に向かうことも書かれていた。こうした情報をもとに日本船をことごとく撃沈したのがトートグだった。輸送船・駆逐艦合わせて26隻を撃沈し、アメリカ軍の潜水艦で最大の功績を挙げたという。
アメリカ軍には更なる策略があった。1944年7月のサイパン陥落前、アメリカ軍はアッツ島の基地からシュムシュ島を狙っていた。そこからB29を用いて、東京や札幌を爆撃する計画を進めていたのだ。「シュムシュ島に設営した航空基地から東京を爆撃、日本の重化学工業施設を駄目にする作戦です。爆撃圏内にある平地をいかに取るかっていう点で、サイパンもシュムシュ島が大事だったんです。問題は、すごく濃い霧がかかるということと、流氷に覆われる時もあるということがあって、地理的な条件からサイパン島にしたということです」(浅野教授)。
■未だ知らない遺族もいる中、最後の慰霊祭
今年6月、5年ぶりの慰霊祭に向けて、全国の遺族が北海道に集まった。高齢化が進み、多い時で100人以上いた参加者も、今年は25人。慰霊祭は今回で最後となる。「やっと来ました」。上杉躬佐子さんにとっては初めての参加だ。母のリヨさんは夫が戦死した場所に赴くことのできないまま、今年4月、102歳で亡くなった。「父と母の写真を持ってきました。母は102歳まで待ち続けて、きっと父が迎えに来て、会えたかなと想像しています」。
最後の生存者だった石川一義さんも去年2月、98歳で亡くなり、当時を知る人は誰もいなくなった。慰霊祭前日に開かれた懇親会で挨拶に立った石川さんの娘・洋子さん(59)が「部隊の80人の部下たちのほとんどが亡くなってしまったので、ご遺族に対してすごく責任を感じていたみたいです。それがいつまでもいつまでも、心に残っていたそうです」と明かした。
「日連丸慰霊の会」の巨勢典子代表(91)は「この近くでもたくさんの船がアメリカ軍の攻撃を受けて、沈没しておりますけど、こんなに長く続いているのは、日連丸の慰霊祭だけだと思うんです。今回で最後ではございますけれども、この碑は永久に残ります。今後も、この英霊の思い通りに、平和がいつまでも続く事を念じております」と遺族を前に訴えた。
黙祷、そして鐘の音。厚岸の海に向かい、上杉さんは「お母さんも来てますよ」と語りかける。「何か想像しちゃうんです。助けを求めながら流れてくる人が見えるような気がして、胸がいっぱいです。75年ぶりにやっとたどり着きました、この場所に。父の思いを、母も、私たち家族も汲み取ることができたかなと思います。皆さんのためにも手を振ります。また来ます」。
父の眠る海を見ながら、沼田勝さんも「親父に感謝だね。親父、俺をこの世に残してくれてありがとう、という感じですよ。死に場所も戦死した場所も分かって、慰霊祭もしてもらって良かったんじゃないかなと思います」と語っていた。
家族にも隠された日連丸の沈没。戦後74年が経っても、未だそのことを知らない遺族も多い。