「思い出がたくさん詰まった川原の自然や風景が私は大好きです。故郷・川原が奪われるのは絶対に嫌です」。家族との何気ない日常やふるさとを愛する気持ちは水の底に沈んでしまうのか。ダムの里に生まれた女子高校生を追った。
■推進派と反対派に割れる故郷
長崎県川棚町の川原(こうばる)地区。集落を流れる石木川は清流として知られ、夏はホタルが飛び交う自然豊かな里山だが、半世紀にわたり人々が闘い続けてきた「石木ダム」の建設予定地でもある。
ダム建設を国が認可したのは1975年のこと。目的は隣の佐世保市の水不足解消、そして下流の洪水対策だ。近年、日本列島を襲う大規模災害によって、ダムの役割に改めて注目が集まっている。長崎県も石木ダム建設の理由に、100年に一度の大雨による洪水を防ぐことを挙げている。
これまでに8割の地権者が事業に協力し、別の場所に移り住んだが、残り2割はダムでは洪水は防げない、佐世保市は人口が減っていて水は足りているとして反発。現在もダムは完成には至ってない。県は昨年秋、全ての土地を強制収用したが、今なお13世帯・およそ50人の暮らしが続いている。
「川原って落ち着くんですよね。自然が。帰ってきたなーって感じで」。ここに暮らす4世代・8人の松本家。長女・晏奈さん(はるな、17)は高校で陸上に励み、駅伝大会に向け練習の真っただ中。物静かで優しい祖父、とても明るい祖母、家の横で鉄工所を営んでいる父、いつも笑っている母。弟の昂大君は今春、競輪選手を目指し、家を出る予定だ。そして曾祖母のマツさんは92歳の今も集落の入り口に建てた小屋でダム工事の見張りを続けている。「住んどっても叩き壊すとでしょうかね。(パワーショベルで)で叩き殺すとやろか」。
石木ダムに用地を提供した元地権者の一人、田村久二さん(83)は、20年前に県が用意した宅地に移り住んだ。新しい家はふるさとの山から切り出した木で建てた。最初はダムに反対していたが、町の活性化につながればとの思いから、県に協力することを決断。移り住んだ後は推進派のリーダーも務めた。「移り住んでよかったと思わんばでしょうね、よかったという感じはありますよ」「(反対派にも)早く同じ気持ちになってくれればいいと思うんですけどなかなかそうはいきませんたい」。今でも毎日、シニアカーでおよそ20分かけて山を登り、ふるさとに木を植え続けている。「自分の故郷ですから、いつでも気楽に来られます」
一方で、“ダムは万能ではない”と指摘する専門家も少なくない。2013年、全国125人もの大学教授らに呼びかけ、県や佐世保市に対し石木ダムは不要であるとする申し入れをした京都大学の今本博健名誉教授(河川工学)は「私はダムの全否定者ではありません。もともと土木の出身ですから、ダムに対するアレルギーもありませんし。ただ、ダムができると川の環境が悪くなるとか色んな面がありますから、できるだけダムは最後の選択肢にしたい」と話す。「ダムに費やすお金があれば、河川の改修が随分できますよ。逆にダムの計画のおかげで河川改修はずっとなおざりにされてきています。石木川の場合、あれだけの反対があり、川棚川の下流の方はけっこう改修が進んでいるんです。実は県が言う以上に河川は大丈夫なんです」。
さらに今本教授は、人口の減少や節水機器の普及によって、佐世保市が必要とする水の量は実際には下回ると推測する。「治水にはいらない、利水には全然いらない。石木ダムは科学的に見れば本当にいらないダムです」。
■県知事に直接の訴えも
昨年9月、晏奈さんの家の権利も長崎県に移った。11月18日までに家を出ていかなければ、行政代執行で無理やり追い出されるかもしれない事態だ。強制収用の前日、水没予定地に住む住民たちは県庁を訪れ、中村法道知事に“土地を奪わないでほしい”と訴えた。
晏奈さんの父・好央さんが「知事、どれだけ弱い者いじめするんですか。1982年5月21日の、機動隊も投入した強制測量、当時小学2年だった私はたいへん怖い思いをしました。生まれ育ったこの土地に住み続けることは悪いことなんでしょうか?私たちは何も悪いことはしていません」と訴えると、マツさんも「この歳になって、どこに出て行けと言うのですか。殺されてもよか」と畳み掛ける。
晏奈さんもマイクを握り、涙ながらに次のように訴えた。
「長崎県知事、中村法道さま。私の家は9人家族です。ひいばあちゃんとは畑で一緒に野菜を作り、それを食べる。家族みんなで田植えや稲刈りもやっています。都会では味わうことができないことが、川原では日常的に行われています。小さい頃は兄と弟と4人で川で魚を捕まえたり、虫をとったり、ホタルを追いかけたり、秘密基地も作りました。そんな思い出がいっぱい詰まった川原の自然や風景が私は大好きです。ふるさと川原が奪われるのは絶対に嫌です。帰る場所がなくなるなんて、考えたくもありません。そして人口は減っているのに水は足りないというのは私たちには理解できません。きちんと説明すべきです。不要なダムのために私たちの家や土地を奪うのはおかしいと思います。私たちを含む川原すべてのものを奪わないでください。私たちの思いをどうか受け取ってください」。
しかし面談後の会見で中村知事は「これまで用地の提供等でご協力いただいた多くの方もいらっしゃるわけですので、それぞれの方々の思いを大切にしながら事業全体を進めていく必要があるんだということを改めて感じたところです」とコメントした。
面会から20日後、地権者の元には“ダム建設に向けて話し合いたい”とする知事からの手紙が届いた。受け取った好央さんは「“今後の地域振興も合わせて誠意をもって対応したい”…これ自体が、誠意がないことですからね。誠意ってなんでしょうね、知事の誠意って。県庁に行って、子どもたちも含めて思いを訴えさせてもらった、その答えがこれなのか、という感じもしますね。作ること前提では、私たちも話し合いに応じることもできません」。
国がダム事業を認可した1975年に生まれた好央さんは、大人たちに交じって抗議活動をした経験もある。「親とか、ばあちゃんが必死で戦っている。ただ事ではないなというのがありましたね。諦めようと思ったこともありますよ。子どもが生まれてどうしようとか、不安な思いをさせてるんじゃないかとか。でも、親がしっかり守ってきた土地ですし、それを子どもたちに残したいという思いがあるので」。
■完成目標は3年間先延ばしに
そんな中、晏奈さんは駅伝の選手に選ばれた。2年生での抜擢は、大きなプレッシャーだ。しかも大会は家の明け渡し期限の2週間前。そのことを振り払うように、練習に没頭した。さらに松本家には心配なことが起きていた。晏奈さんの母・愛美さんが手術を受けるため、入院することになったのだ。退院予定日は、明け渡し期限の11月18日だ。「私、帰ってきたら家が無かもしれんね(笑)。守っとってね」と冗談交じりに話す愛美さんに、「いや、そういうことはない。帰ってくるところはちゃんとありますよ。まかせろ!」と好央さん。
大会当日、エースの怪我で、晏奈さんは強豪ひしめく2区に抜擢された。責任は重大だ。高校時代、同じく駅伝選手だった好央さんも応援に駆けつける「緊張しますね、自分が走るのより緊張しますよ」。走り抜けて行く娘に、「はるなファイト!腕振って!ファイト、ファイト」と声を掛ける。「上がらないですね、ペースが全然。ラストスパートいければいいですけどね」。
巨大な力に立ち向かっている娘、押しつぶされそうな心を押し殺し走り続けてきた娘。好央さんの心の中には、普通の高校生のような青春を送らせてあげたいという思いが溢れてきた。「色々ある中で一生懸命頑張って走ってくれてるというのは嬉しいですよね。知事にああいうふうに会いに行って、精神的にもきつかっただろうなと思う中でも高校駅伝に向けて取り組んでいる姿を見て、すごいなあと思いましたね。すみません、何か…」と涙を流した。
ついに明け渡し期限、川原はいつもと変わらない朝を迎えた。この日も見張りを続けた。「やっぱりここから出となかもんね、ここが一番住み心地のよかと思っとるもんね。今度18日はどがんなっとかな?どうなるんでしょーね?崩しに来るとやろか?」。不安そうなマツさん。
母・愛美さんは無事退院、弟の昂大君は自転車競技のトレーニングを開始した。そして翌日、地権者のもとには再び県から手紙が届いた。「家、壊すてこと?家ばもう渡さんばと?」悲しむ晏奈さんに、愛美さんは「悔しかね」と声をかけた。
結局、長崎県は石木ダムの完成目標を3年間延ばした。ダム本体の工事着手は来年度を予定している。晏奈さんはもう一度、知事に手紙を書いた。
「県知事 中村法道さま 私たちは土地の権利が変わっても気持ちは同じです。 川原に住み続けます。 松本晏奈」。