鬼怒川。その名の由来は諸説あるが、信ぴょう性が高いとされているのは、読んで字の如く「鬼が怒るように荒々しい流れ」というものだ。この地で温泉が掘り当てられたのは江戸時代の1691年。5代将軍・徳川綱吉により「生類憐みの令」が出された時代のことだ。
鬼怒川は日光東照宮や輪王寺など、日光の歴史をめぐる拠点としても最適で、日本三大名瀑のひとつ「華厳の滝」や、絶景を楽しめる吊り橋など、全身で大自然を感じることができるのも魅力だ。バブル崩壊後の長い低迷期を経て、近年ではSLの復活運転や増加する訪日外国人の受け入れなどで、再び明るさを取り戻しかけていた。
経営破綻から新たな経営者が引き継がれ、再建に向けた準備をしていた旅館「鬼怒川 絆」。しかし今年、新型コロナウイルスの暗い影が忍び寄った。グランドオープンは10月まで延期を余儀なくされ、失意に沈む社長。そこでひらめいたのが、同じコロナショックで仕事を失った演劇世界のクリエイターたちの手を借りて再建を目指す、というアイデアだった。
ところがこの「異色のコラボ」、案の定というべきか、次々と衝突を繰り返してしまう。さらには予期せぬトラブルも襲った。温泉旅館は彼らの手で再建できるのか?演劇人たちに託された温泉旅館再建の日々を追った。テレビ朝日制作 テレメンタリー『突然、ニューノーマル~温泉旅館再建を演劇人に託してみたら~』より)
■「わんことインスタ映え」を共通テーマに
アイデアを持ち寄り集まった“職人”たち。舞台・映画・音楽・テレビなど、マルチな分野で活躍する演出家の佐藤徹也監督(50)、舞台美術の竹邊奈津子さん(33)、舞台装飾をデザインする立川小春さん(28)、そして舞台照明の廣田恵理さん(31)だ。
2700坪の広大な敷地と風光明媚な日本庭園を持つ純和風旅館が倒産したのは、今年1月のこと。新たにやってきた下津弘享社長は従業員の雇用を守ることを約束。すぐにでも再出発を図るはず、だった。
「コロナがどのように終息するのか先が見えない中、仮に再開させたとしても思い通りに予約が取れない可能性がある。自粛という形で、実質的に休業せざるを得ない」。
早々のグランドオープンを諦め、10月までの休業を決めた。そして盛んに言われ始めた、「新しい日常」とは何か?不安は募る。
生き残りをかけ、望みを託された佐藤監督は「この旅館の最大の売りは、犬と一緒に過ごせる」と指摘。そこで、「わんことインスタ映え」を共通テーマに据えた。
そのために、まず玄関に楽しくなる仕掛けを施そうと考えた。居場所を失った大きな木彫りの熊も粋な演出で蘇らせようした。何より自慢の日本庭園には灯りもないため、夜になると真っ暗になってしまう。ならばと、「まるでペットとステージに上がっているような」ライトアップ演出を考案。他にも、“肉球マーク”を随所に仕掛けようとした。
しかし、どうも下津社長の顔が浮かない。休業中も従業員の給与支払いが続く中、職人たちとの大きな隔たりが浮き彫りになる。「スタートは(予算)100万円ですね。(佐藤監督からは)550万円と。いや、ありえない」。コストカットを厳命する親会社と掛け合った結果、「(最終的に)300万円何とかすると。もうこれがマックスだ」。
■勝手が違う作業に、予算はオーバー
8月、総予算300万円、総勢14人の職人たちが作業を始めた。
舞台美術の竹邊さんは「室内庭園のはがれた苔を復活させようと、色を最初につけてから、干して出来たやつを付けようと」。行灯には監督肝いりの演出、肉球マークが印刷されていた。
照明の廣田さんは「全て暗い電球に入れ替えてます。全体的に落ち着いた庭、落ち着ける庭みたいな感じのコンセプトで進めたい」。別の場所では新品の行灯をゴシゴシとこすっていた。雰囲気をなじませる作業「汚し」だ。こうした細かい作業に、舞台美術で培った技術が活きてくる。置き場に困っていた木彫りの熊も、著名なアーティストたちの手も借りて大変身させることになった。
ところが、演劇の舞台とは勝手が違うことが次々と判明していった。例えばウッドデッキを固定するための柱。通常の舞台セットでは強度を保てないことがわかった。「舞台は本番が終わったらすぐ廃棄しちゃうんですけど、ここはず半永久的なので。やっぱり素材選は舞台と全然違う」(竹邊さん)。
美術チームが出した見積もりは、300万円を超えた。「なんでこんなに(予算)オーバーになっちゃったの?一番の原因は?」と佐藤さん。立川さんは「ウッドデッキとかが思ってたものでいけなくて、コンクリートとかで埋めたりとか、資材の読みが甘かったっていうのがあって…」。
照明チームからも同様のSOSが寄せられた。実際の庭園を目の当たりにすると、「もっと照らせばもっと美しくなる」と判断したのだ。美術と照明で650万円にも関わらず、全体予算は300万円だ。このままでは、大赤字どころかスタッフに日当も払えなくなってしまう。
■想像以上の修理費ものしかかる
職人たちが予算の問題で頭を抱える中、旅館側もとんでもない事態に陥っていた。シロアリ被害に加え、風呂の水漏れが深刻なものになっていた。池の水漏れも発生、「水がたまらないらしいんですよね。どうにか池を復活させられるために、水が抜けているところ直したい」と施設管理部長。
居抜き工事だけで済むはずが、修理費はなんと想定外の4000万円。こんな危機的状況では、演劇チームに予算を上積みすることなど無理だ。
下津社長が佐藤監督を呼び出し、「具体的にどれくらいなのか、見積もりじゃないけど出してもらいたいんだよ」「やはり限られた(予算の)中で再建をしていかなければならない。そこは非常に心苦しい」と話すと、佐藤監督も「見えないのが工費。それが莫大な金額なんですよ。100万円くらい…」「社長と何度も金の話をしたけど、ここだけは譲れないってことを(美術の)竹邊も(照明の)廣田も持っているので、そこを僕がお金の問題で“ちょっと悪いんだけど”って言ってしまうのは…」。
予算の増額が難しいことをスタッフに言い出せずにいた佐藤さん、午後11時過ぎ、食事を終えて戻ってくると「もう眠る」と言っていたはずの職人たちはまだ作業を続けていた。「なにやってんのお前ら…」と絶句し涙をこぼす佐藤さん。「みんな、ありがとう」と絞りだすのがやっとだった。
■「みなさんのパワーに、こちらの思いが変わっていった」
8月下旬、帳簿とにらめっこしていた下津社長。「最後の最後で社内的な予算の調整を取れていって(300万から)420万円にということです。自分の中で非常に腑に落ちなかった物がどんどん腑に落ちていって“ああ、なるほどな”と。まあ、やっぱり佐藤さんの情熱とか、始まってからのみなさんのパワーというか、本当に想定以上のものをどんどん作り上げていくのを目の当たりにして、こちらの思いが変わっていった」。
コロナに揺れる演劇界。新たな未来を切り開くためにも、温泉旅館の再建という初めての仕事を成功させたい。佐藤監督も、そんな強い決意を抱いていた。登壇したシンポジウムで「(コロナで演劇界の)火を絶やさないためには、あえて今回は、20~30代の前半の若いクリエーター、“ちょっとこんな子たちが旅館をプロモーションしましたよ”って、そういうところから、“演劇人の持ってる才能とは素晴らしいじゃないか”と。こういうアプローチをすることで、人の心は動くんじゃないか」と改めて意気込んだ。
そうしている間にも、作業は続けられていた。気づかされたのは“私たち”。新たな挑戦への機会を与えてくれた“感謝”を胸に、“仕事”に打ち込んだ。
構想から4カ月、ついに工事が終わった。「わんことインスタ映え」の旅館ができあがったのだ。旅館の正面玄関もガラリと変わった。新たにデザインした家紋をよく見てみると、犬の肉球だ。同じマークは行燈にも。愛犬とともにやってきた客の心をお出迎えからぐっと掴むのが狙いだ。
館内に足を踏み入れると、苔や行燈、吊りランプなど、おしゃれ度を数段増した室内庭園が広がる。実はここにも、舞台演出ならではの、「インスタ映え」の仕掛けが施されている
非常口の標識には、人間の隣に犬のものも。行き場のなかった木彫りの熊は、鏡とタイルだけで作りあげた昼も夜も光り輝く“ダイヤモンド・ベアー”に変身した。夜は暗闇だけが広がっていた日本庭園にも照明が配置され、情緒ある空間に生まれ変わった。“まるで愛犬とステージに上がっているような”、そんなコンセプト通りの演出に仕上がった。
■「“異質な存在”から街全体が活気づいてほしい」
ところが、“好事魔多し”とはまさにこのことだ。「え、嘘でしょ!嘘でしょ!」と廣田さんが思わず絶叫する事態が出来した。畑の違う互いが困難を乗り越え、2週間後のグランドオープンがようやく見えてきた矢先、栃木県を記録的豪雨が襲ったのだ。ここから懸命の復旧工事の甲斐もあり、なんとかグランドオープンの日を迎えた。
初日、多くの犬連れの客が訪れた。笑顔で旅の疲れを癒やし、さらにスマホを片手に、あちこちで愛犬の写真を撮影していく。翌朝、スタッフに見送られた時の笑顔を見れば、満足度はひと目で分かった。
翌日、下津社長が向かった先は地元観光協会。「鬼怒川の街に何かしらの印象を与えられるような異質な存在、みたいなことは意識しましたし、そういう中で街全体が活気づいてほしいというのが最終的な目標です。地域を盛り上げていきたいという思いが第一なのでご協力いただけたらありがたいなと。これから精一杯やっていくのでよろしくお願い致します」。実は以前、こんな思いを打ち明けていた。
時代は突然、「ニューノーマル」へ。新たな日常とは何か、模索の旅は続く。テレビ朝日制作 テレメンタリー『突然、ニューノーマル~温泉旅館再建を演劇人に託してみたら~』より)