震災直後から10年撮り溜めた定点映像が語る“復興の現在地”と被災者の葛藤「いつが復興なのか」
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 かつて、そこにあったものが、津波ですべて失われてしまった宮城県名取市の閖上地区。震災から3年後、がれきは撤去され、緑が生い茂っていた。2016年には、更地だった場所に水産加工会社ができるなど、被災地が少しずつ復興していく様子が分かる。

【映像】2011年4月に撮影された被災地の風景

 誰もが絶望に打ちひしがれたあの日から10年。今では、復興を願う人々の希望が詰まった風景が広がっている。

 震災直後から現在まで、テレビ朝日の報道カメラマンは“被災地の今”を、同じ場所、同じアングルで記録し続けていた。目の前の大惨事を未来にどのように伝えていくのか。取材の合間を縫って撮り溜めた1カット1カットは、地図上から視聴できる特設サイト「REC from 311」で公開されている。

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 福島第一原発事故の影響で避難指示が出され、震災から2年が経っても、人の姿はなかった浪江町。その後も、立ち入りは日中に制限されるなど、限られた人だけが町に出入りする状況が続いた。そして2017年、帰還困難区域を除き、避難指示が解除されると、バスも走り出し、かつての町の姿を徐々に取り戻し始めている。

■岩手県・大船渡市「心の復興の支援は続く」 津波を知らない子供や孫につなげる取り組みを

 岩手県・大船渡市も1歩ずつ再生を歩み進めた町の1つだ。これまでの10年を船渡市復興政策課の伊勢さんは「あっという間だった」と振り返る。

「肌感覚としてはこれまで復興・復旧に取り組む中で、10年は個人的にけっこうあっという間だった。震災直後から被災者の事業者支援を6年間やってきました。その中で、仮設店舗を整備して、そこに被災者事業者に入っていただいて『まずは仮設で事業再建してください』というところからきた。定点映像を見ていると、何もない更地から商店街ができて……その流れが見えると『あぁ、あの当時はこうだったなぁ』と思い出します」(大船渡市復興政策課・伊勢徳雄課長補佐)

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 大きなスーパーやホームセンター、ホテルなどが次々と建設された大船渡市。震災を機に事業者が一致団結し、イベントなども盛んに行い、賑わいをみせているが、現状について、伊勢さんは「まだまだ復興は道半ば」と話す。

「産業の基盤、住まいの再建等については、おおむね完了が見通せる状況。ただ、どうしても復興を進める中で出てきた新しい問題もある。被災された方の“心の復興”、住む地域が変わったことによるコミュニティの再構築を支援しなければならない。復興計画期間は10年と区切っているものの、期間にとらわれない中長期的な支援が必要だ。ハードの部分ではある程度の状況は見通せているが、ソフトの部分はこれからも続いていくと思う」

 10年経った今だからこそ、見えてきた新たな課題。“10年前の教訓”を、どのように未来に伝えていくのか。

「地域の代表の方の話を聞くと、3.11では過去に津波を経験しているお年寄りに限って、声掛けをしても『今回は大丈夫でしょ』と逃げずに被災された人がけっこういらっしゃった。今回の震災をきっかけに『やっぱり津波は怖い』と改めて認識してもらって、気持ちを1つにしないといけない。10年経っているので、今後は津波を知らない子供たち、孫にちゃんとつないでいくような取り組みも重要だ」

■宮城県・石巻市「いつが復興なのか」 人のつながりがない建物は「単なる“箱”」

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 宮城県・石巻市では、当時津波によって、一帯ががれきの山となった。門脇・南浜地区では、かろうじて、いくつかの建物が残ったが、ダメージは深く、建物は次々と取り壊された。2013年には、町を支えた市立病院も解体された。震災から数年が経ち、復興住宅も完成。沿岸部の整備が進むなど、復興作業は今も続いている。

 周りの景色が少しずつ変わっていく中、お寺「称法寺」は、その様子を見守るようにずっと残り続けた。長年、地元の人たちの“心の拠り所”だった称法寺は、この10年、町をどのような想いで見てきたのだろうか。

「お寺の本堂が260年くらい前の建物で、屋根の瓦の修復や葺き替え工事などをした。それ以外は昔のまま。『しっかり残したいんだ』という気持ちが住職の中で強かったから残ったんだと思う」(称法寺・松山善洋副住職)

 称法寺も、津波の被害を免れたわけではなかった。本堂には津波によるがれきが押し寄せ、墓石も散乱。周囲の建物と同じく、取り壊しも避けられないような状況の中、松山副住職の叔父にあたる当時の住職は、この場所で復興を決意した。

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「門徒の心のよりどころになってお寺を再建したいが、本当にできるのか。10年経つのか20年経つのか、30年経つのか……。そういった先が見えない中で恐らく1人で、使命感と苦しみの狭間でいらっしゃったんじゃないかなと」

 たった一人で復興に向き合った住職。しかし、震災から5年後、志半ばでこの世を去ってしまう。

 松山副住職はそんな住職の遺志を受け継ぎ、雑草が生い茂るゴーストタウンと化した町で、ただ、ひたすらに作業を続けた。

「私は無我夢中というか、日々目の前にあることを淡々とこなすだけの数年間でした。あまり周りの姿を見ていなかったように思います。定点カメラの映像を見て『こうやって少しずつ復興しているんだな』という実感をいただいた」

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 人手もお金も決して十分とは言えない中、なんとかやりくりし、2017年に本堂の復旧工事を開始。翌年、ようやく元の姿に戻った。

 震災から10年、住民の心の拠り所でもあるお寺が再建。石巻の“復興の現在地”について、松山副住職は「いつが復興なのか」と問いかける。

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「市の統計でも石巻の人口は、かなり減っている。特に震災地の門脇・南浜地区は1割も戻っていない。まず都市計画上『もう津波のエリアで危ないから住めません』と(言われている)。帰りたくても帰れない。元々の地権者の方が家を建てたくても、そこを継ぐ息子、娘さんたちが『いや、あそこには住まないよ』『あそこで家を建てても私たちは住まない』と言って、結局継承できない。門脇・南浜には人口が戻りにくい形になってしまっている」

「私から考えれば『いつが復興なんですか』と。皆さん、石巻の映像や本堂の姿を見ていただいて『よかったですね』と言ってくださるのはありがたいのですが、私の中では『はたして復興はいったいどのタイミングなんだろう』と、いつも疑問に思っている」

「復興はそこに生きている、根付いている人も含めての復興。どうも被災者、被害に遭った方々の復興が置き去りにされているのではないかと思う。建物ができても、そこに人が住んでいなかったり、血の通った人々のつながりがあったりしないと、どうしても単なる“箱”にしか見えない。そこの部分で両輪がかみ合っていかないと、本当の意味で復興とは言えないんじゃないかなと思う」

ABEMA/『ABEMAヒルズ』より)

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