福島県浪江町は、山と海に囲まれた自然豊かな地域だ。2011年3月11日、東日本大震災により、町は一変する。
当時、東京電力福島第一原発事故によって、福島県の12市町村に避難指示が出され、約16万人が避難した。あれから10年経ち、避難指示区域が徐々に解除され地域に人が戻りつつある。
しかし、現在も約3万6000人が避難生活を余儀なくされている現実を忘れてはならない。帰りたくても帰れない人、帰らないと決めた人、故郷に帰る人。彼らはこの10年で何を思い、どんな道を歩んできたのだろうか。
「もう二度と戻れないかなって思った」
浪江町出身の堀川文夫さんは、地域に根付いた塾を営み、子供たちには日ごろから原発の危険性を伝えていた。
「現実になってしまったという感覚が私の中にあった。『逃げなきゃ』と思って逃げた」
堀川さんは妻と共に静岡県富士市に避難した。しかし、新しい土地にはなかなか馴染めなかった。
「よそ者だから。仕事もしないで、ぶらぶらしているように周りから見られているような目がなんとなく痛くて。妻が鬱になった」
故郷を追いやられた悲しみ。何十年も積み上げてきた信頼や人間関係の喪失。堀川さんの心も次第に荒んでいった。
浪江の自宅に一時帰宅した際、堀川さんは変わり果てた家の様子をカメラに収めていた。
「3月11日のお昼ご飯の跡だ。猫の足跡がいっぱい。動物の入った跡がいっぱいある。壁は亀裂が入っている。これが我が家だ。もう二度と帰れないでしょう」
「自分の人生であり、両親の人生であり、祖父母の人生。私たちの長い歴史があそこにあった。その歴史ごと切り取られたのが原発事故だった。人間の生死という重い問題はあるが、津波だけだったら私たちの歴史が切り取られることはなかった。そういう怒りもあるし、悔しさから何から何まで……」
避難先で思い出すのは、幸せだった故郷の暮らしと子供たちの笑顔だ。もう二度とあの生活には戻れない。堀川さんは深い失意に苛まれていた。そんなある日一筋の光をもたらすきっかけが訪れた。避難した塾の教え子の一言だった。
「神奈川県に避難した子供の一人がこう言った。『先生、俺にとって震災は悪いことばかりじゃなかったよ。これがあったから会えない人と会えた。これがあったからできないことが経験できた。だから俺にとって悪いことばかりじゃなかった』と。それに私はガーンと頭を叩かれたように思えた。『お前、いつまで引きこもってるんだよ』みたいに。子供たちは4月から新しい生活を始めなきゃならなかったじゃないか。『何やってんだよ』と言われたように思えた。そこから一気に動き出せた」
堀川さんは避難先で新たな一歩を踏み出す。
「この場所で新たな塾を開きたい」
堀川さんは「自分がどのような人生を浪江で歩んできたか。新しい地区の人たちにもわかってもらおうと必死でやった」と話す。その思いは次第に地域の信頼へと変わり、そして富士市に新たな塾を設立した。
避難先で自分の居場所を見つけた堀川さん。しかし、それでも生まれ育った故郷を忘れることはないという。
「避難先に根を下ろせば下ろすほど浪江との縁が薄れていく寂しさはある。故郷ですから」
堀川さんに「10年経つが今も避難している感覚なのか」と聞くと「そうだ。みんな帰りたいと思っている。帰らない選択をした人も、帰れないと思っている人も帰った人もみんな帰りたいと思っている。それだけは間違いないと思う」と答えた。
■「浪江をなくしたくない」帰還した女性の挑戦
避難から10年。一方で故郷に戻り、地域を盛り上げようと活動する人がいる。清水裕香里さんは「頑張って浪江でやってきた。それをないものにはしたくないと思った」と話す。
原発事故の後、県内で避難生活を送っていた清水さんは2017年の避難指示解除を機に帰還。取り組んだのはそれまで経験のない花の栽培だった。
「人もいないのもそうだし、草はぼうぼうだし、すごい量の瓦礫の風景は今でも忘れられない。耕作放棄地がどんどん増えてきているので、畑を借りてハウスを建てて花を植えて出荷する人が増えれば、そういう問題も少し解決できるのではないかと思う」
手探りで始めた花農業。力を入れたのがトルコギキョウだ。
「一度はすたれてしまった故郷の街をかつての美しい土地に戻したい」
浪江町のトルコギキョウは口コミで人気が広がり、花を使った復興として全国でも注目を集めた。清水さんは「風景も震災の時よりきれいになってきているので、いろいろな人の力で少しずつ復興が始まっている」と話す。
(ABEMA/『ABEMA Prime』より)
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