「自分の体が女性であるとは言えないと思います。理由は……生物学的にいうと男性だからです」
建築家でモデルのサリー楓さんが女性として踏み出した瞬間を追ったドキュメンタリー映画『息子のままで、女子になる』。ロサンゼルス・ダイバーシティフィルムフェスティバルでドキュメンタリー賞を受賞するなど、海外の映画祭で評価を得た作品が日本で今月19日から公開される。
映画の中では、サリーさんのビューティーコンテストへの挑戦も描かれている。サリーさんのコーチを務めていたスティーブン・ヘインズさんから映画の撮影依頼を受けたのは、ニューヨークで映画製作を学んだ杉岡太樹監督だった。
――監督のオファーを受ける上でプレッシャーはありましたか?
杉岡:正直、トランスジェンダーやLGBTの世界に踏み込んでいくのは恐怖感みたいなものがあった。世の中の風潮なども含めて、別に僕の人生においてトランスジェンダーの方がどういう処遇を受けようが、どのような立場に置かれようが、当時は『自分事ではない』と思っていた。だったら(オファーを受けるのは)リスクしかないんじゃないかなと。
自分が見たものに対して正直でいたいと思う杉岡監督にとって、トランスジェンダーというテーマは、ある種の近寄りがたさを感じるものだった。
実際に映画として完成するのだろうか――。手探り状態で始まった撮影が進む中、杉岡監督は、サリーさんと父親との関係性を目の当たりにする。
杉岡:(父親との対話は)避けて通れないなと思い、撮りに行きました。そこでお父さんの姿、言動が僕の想像を超えてきた。まさか、ああいう言葉をカメラの前ではっきりと表明していただけるとは思っていなかった。あのときに自分の中でスイッチが入ったというか、それまで『映画にならなくてもいいや』『失うものは時間くらいでしょ』と軽い気持ちでやっていたんです。
男性の姿で生まれた我が子を、息子として育ててきた父。そんな父親の期待に応えられなかった葛藤を持ち続けてきたサリーさん。2人が思いを伝え合った場面で、杉岡さんに映画化への覚悟が生まれた。
また、映画では母親とサリーさんがメイク落としをシェアする場面も描かれている。家族3人で過ごした夜、サリーさんが自撮りで心境を語る途中、母親がメイク落としを取りに来たのだ。
【映像】サリー楓さんが母親と“メイク落とし”をシェアするシーン(4分ごろ~)
杉岡:あのシーンも映画の中で好きなシーンです。今みんな『多様性を大事にしよう』『ダイバーシティを大事にしよう』と標榜されていると思う。どこかでカギ括弧付きの多様性というか、あるべき多様性が規定された多様性を『みんなでフォローしていきましょう』と、そういったムーブメントにどうしても見えてしまうことがある。
それに対して今回の映画の中には僕が思う本来の多様性がたくさん表れていると思っていて、2人のやり取りは娘と母親の姿そのものなんだけど、お母さんは男性名を呼びながら登場してくる。そういう不協和音だったり、お父さんと楓さんの関係の不協和音だったり、言葉で表しようのないカオスのようなものが多様性の本質だと思っています。
「多様性」を認めることが善とされる風潮。しかし、トランスジェンダー1つとっても、その前提への理解が不足しているとサリーさんは映画の中で口にしている。
サリーさん「『トランスジェンダーってこういう人』という像、みんな同じ像を持っていて、しかもそのステレオタイプがけっこう間違っている。でもこれは仕方がないことなんだなと思って、生活していた。自分がずっと思っていたことを『LGBTER』というウェブメディア(のインタビュー)で全部言ったんですよ」
後日、サリーさんの目に入ったのは、読者からの感想だった。
サリーさん「しばらくしたら『あの記事を見せたことでお父さんを説得できた』みたいな人がインターネットに感想を書いてくれていた。やっぱりステレオタイプなトランスジェンダーへの偏見で困っていたり、親に『そんなんだったら学校をやめろ』みたいなことを言われる子って多いんだって気づいた」
愛情を持って育てた我が子でさえ、自分の理解を超えた事実に直面すると生まれる違和感や拒否感。杉岡監督は「人が2人いれば、相違点は絶対にある」と話す。
杉岡:人が2人いれば、絶対に理解しえないことがあるというか、相違点はありますよね。そして人が増えれば増えるほど、その違いはどんどん増えていく。その違いを認めることこそが多様性であって、その違いは時には不快だったり許しがたい違いだったりする。
この不快感、違和感とどのように向き合えば他者と共有する空間を平和に、多様性を尊重した空間にできるか。そのヒントがこの作品にはあるんじゃないかなと思っています。
――映画を通じて伝えたいことは?
杉岡:ないですね(笑)。自由に受け取ってほしい。監督として僕は映画を見て、楓さんのことを「女性であると認めてほしい」という気持ちは全くない。それこそ「私には男性としてしか感じられない」とか「お父さんの意見に賛成です」とか、見た人の背景や経験によって感じることはそれぞれだからです。
僕はあらゆる意見が生まれることを肯定したいんです。とはいえ、差別という問題はあるので、その意見を表明していただくときには気を付けていただきたい。感じるという意味では、自由に感じてくれるのが正解だと思っています。
――どのような人に映画を見てもらいたいですか?
杉岡:まだ、LGBTやトランスジェンダーという存在に対して、嫌悪感とはいわなくても、違和感があったり「理解できない」「どういうこと?」と、分かっていない方にぜひ見ていただきたい。僕としてはそういう人たちの気持ちが、必ずしも無関心だから認められないとは思わない。自分事として考えれば考えるほど、簡単に「賛成です」とは言えないと思う。僕自身がそういう人間なので。
僕には子供はいませんが、子供がいたとして、今でこそLGBTというのは浸透していますが、僕が10年後、15年後、まったく僕が育ってきた環境の中にはなかった概念が生まれて、それに子供が相当するような形になったとき、僕はそれを認められるのか。考えれば考えるほど、愛情があればあるほど、認めるのが難しくなると思う。真面目に考えて考えて、それが故に「まだ認められない」みたいな人がいるんだとしたら、この映画を見ていただきたい。
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