過去の不適切発言で関係者が次々と辞任、解任されるなど、多くの問題が取り沙汰されてきた東京オリンピック。それを連日報じ続けてきたメディアだが、開幕後は一転、メダルを獲得すると選手をたたえるニュース一色に。そんな態度に“手のひら返し”との声も上がった。
一方、オリンピックとメディアの問題は海外でも。アメリカでオリンピックの放映権を持つNBCユニバーサルは、予想以上の低視聴率を理由に、広告主に対する補償交渉をしていると伝えられている。
その他、政治利用ともとれる発言が自民党の大御所議員から飛び出すなど、まだまだ問題は吹き出しそうな雰囲気も。オリンピックで浮き彫りになった日本の問題点について、東京都立大学教授で社会学者の宮台真司氏に聞いた。
■日本人は“お祭りをすれば忘れる”国民性?
オリンピックと政権が一緒くたに批判されることについて、スポーツコンサルタントで元JOC職員の春日良一氏は「オリンピックを批判することと政権を批判すること、あるいは日本の社会の問題は分けて考えてもらいたいと思っている。オリンピック自体は悪いことをしているわけではない。選手が自分自身の人生を懸けて、4年に一度の戦いに行くというムーブメントに価値がある。それが世の中を改善していくためのステップになるというのがオリンピックの思想で、そのこと自体は否定しなくていいのではないか。ただ、それを政治的に利用する意図の中で、開催するほうもそうだし、中止を唱えて政権に対する態度を明らかにしていく形もある。そういうところは分けて考えてほしいと思う」と話す。
オリンピックを開催する意図と、オリンピック自体が成し遂げるものは別物だというのが春日氏の考えだが、宮台氏は反対の立場だと主張する。
「オリンピックを招致する理由は簡単で、経済と政治だ。スポーツのお祭りをしたいから招致しているわけではないことにまず注意しなければいけない。例えば、1964年の東京オリンピックの時は、日本はまだ敗戦から20年も経っていなくて、国民が自信を持っていなかった。調査をすると、日本人はアジアのあるいはアジア人の一員だと答える人が大半だったが、オリンピックが終わった直後の世論調査では、日本は西側先進国の一員だと、そこまで国民の自己意識が変わった。その後も高度経済成長が続いて、明も暗もあるけれども、国民の多くは経済成長を喜んでいたからそれでよかった。ところが結局、日本は先進国あるいはOECDで唯一、25年間実質所得が下がり続けている。経済指標は最悪で、社会指標、幸福度はOECD加盟国では最低の部類だ。これらを放っておいて、お祭りで無かった事のようにはできない。今回のオリンピックでみんな自信がついたのか? スポーツを見れば、特にオリンピックのように中継するのであれば盛り上がる人が多いのは当然のことだ。そこでお祭り騒ぎが生じるのはいいとして、何かを忘れていいのか」
宮台氏は、日本人の“お祭りをすれば忘れる”という国民性が問題だと指摘する。
「天皇による改元もそうだが、お祭りでみんな一丸となった後で過去を忘れるのは、何百年にもわたって日本がやってきたこと。ヨーロッパやアメリカ、多くの国はそうではない。お祭りはお祭りだけど、それとは別に宗教がある。人の目と神の目があって、お祭りで忘れるのは人の眼差しだ。人は忘れても神は忘れないというところから、歴史を忘却しないで、ひたすら記憶し続ける作法がある。日本はそういう作法が継続されているだろうか。例えば、東京オリンピックと今回の新東京オリンピックの“同じさと違い”はどこにあるのかを議論しなければ本当はダメだろう。お祭りだから同じだと言っている時点で、すでに日本人の劣等性である“お祭りで忘却”が現れてしまっている」
■小山田問題、“謝罪”の是非をめぐる議論に宮台氏「レベルが低すぎる」
五輪開会式の楽曲担当だった小山田圭吾氏が、過去のいじめ問題で炎上し、謝罪文を公表後に辞任した。過去の問題はどこまで謝罪すれば許されるのか、また謝罪を受け入れるような仕組みを作るべきなのか。
宮台氏は「僕が語りたいのは、要は小山田さん問題に露呈している日本人の劣等性問題。“小山田さんは謝った”“謝ったから許せ”“ごめんで済んだら警察はいらないだろう”みたいにネットが紛糾しているのは、レベルが低すぎるのではないか」と指摘する。
宮台氏は、ドイツの“贖罪”を例に出す。戦後、西ドイツ(当時)のアデナウアー初代首相は、ナチスによるユダヤ人迫害に対して、西ドイツによる贖罪・救済政策に道筋をつけた。アウシュビッツ解放から75年後の去年、シュタインマイヤー大統領は「私は歴史的な罪の重荷を背負ってここに立っている」と述べている。
「ドイツの元大統領、リヒャルト・ヴァイツゼッカーが1985年に有名な演説をしている。それは“罪と責任を分けろ”と。罪というのは謝罪によって、過去を清算あるいは手打ちにすることだ。ところがドイツ人は、謝罪によって手打ちをしてはいけない、謝罪をして政府と政府で手打ちをしたところで納得しないやつがいる、と。いろいろと永久に言われるが、それがドイツにとっていいことだと言っている。“あんなひどいことをしたドイツは今何をやっているんだ”と言われたら、“これをしている、あれをしている”と言い続ける。永久に言い続けることによって、ドイツは信頼を回復するということだ。責任というのは“すみませんでした”ではなく、何がダメだったのかをまず自分で明らかにして、“こうやって手当てし続けてきている”と、問われるたびに明らかにすること。これが大事だ。小山田圭吾氏だけでなく、いろいろな問題を引き起こした方、特に人を傷つける問題を起こした方々が、謝罪によって物事が済むという幼稚な考え方を捨てなければダメだ。むしろ、永久に責任を取り続けることによって信頼を醸成する」
また、この問題の構造は今の政治にも通じるものがあるとし、「実際に、ドイツはあれだけひどいことをやっておきながらEUの盟主になった。ドイツの大統領は就任演説で必ず、“ドイツ国民は重い歴史を背負っているから責任を果たさなければいけない”と言い続けている。これも先ほどの“お祭りで忘れる問題”と同じ。レスポンシビリティ(責任)とはもともと、コールされてレスポンスするという宗教の言葉だ。“あれだけひどいことをして何をやっているんだ”とコールされ、“私は今こういうことをしている”とレスポンスする。あるいは、困っている人がいることがコールされている状態で、思わず体が動いてレスポンスする。今日本で、コロナで困っている人がたくさんいるが、政治家はコールにレスポンスしているか。していないだろう。小山田問題と同じものがそこにあるわけだ。あるいは忘却して責任をとらないという態度は、お祭りにも一貫している」と続けた。
そもそも人選の時点で下調べが足りなかったという点について、春日氏は「式典の場合、普通は組織委員会で総合プロデューサーを決める。長野(五輪)の場合は浅利慶太さんだった。彼に全部任せた上で、信頼関係でやっていく形だった。今回は、コロナのこともあって何回も総合プロデューサーを変えていかなければならなかった。その中で、電通にすべて丸投げしていることが諸悪の根源かもしれない」との見解を示す。
宮台氏も丸投げは重要な問題だとし、「価値観にこだわるということであれば、誰かに丸投げできるのだろうか。自分の価値観、自分たちの価値観を表明するためのものであれば、価値観に従った人選を自分たちでするべきで、価値にもとる振る舞いがなかったかどうかという観点で身体検査するべきだ。単に“ギャーギャー言うやつがいるからコンプライアンスしておけ”みたいな枠の中でやろうとしているから、こういうことが起こりがちになる。それがすごく大きな問題としてある」とした。(『ABEMA Prime』より)
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