「目の見えないやつがどうやって授業やるの?ってご心配だったらば、いつでも授業参観していただければと思います」。両目の視力を失っても教壇に立ち続ける国語教師がいる。見えなくてもできる。いや、見えないからこそ、教えられることがある。入学時から共に歩んできた71人の生徒たちは今年、中学3年生になった。
「子供たちに何を残せるか何が出来るか、コロナ禍で模索しております」。時に悩み、時に迷う。それでも「光」を灯し続ける、先生と生徒の2年間を追った。(テレビ朝日制作 テレメンタリー『全盲先生と142の瞳』より)
■生徒の自己紹介を録音、名前と声を覚える
生徒からは親しみを込めて「ヨシノリ先生」と呼ばれている新井淑則さん(59)。盲導犬リルに先導され、埼玉県北西部の秩父の山々に囲まれた皆野町の町立皆野中学校まで、毎朝20分の道のりを徒歩で通う。両目の視力を失いながら普通中学で授業を受け持つ先生は、全国でもほとんどいないという。受け持つのは国語だ。黒板に字を書けるのは、長年の積み重ねがあるからだ。時間は音声が鳴る腕時計で確認する。生徒の顔は見えないが、誰がどの席にいるのかは分かっている。
生徒の机を回りながら「まとまりましたか?分担決まった?」「カナちゃんのイラストはオッケー?」と声をかけていく。新年度が始まるごとに、受け持つ生徒全員の声を覚えて、授業に臨んできた。「“私の夢は動物関係の仕事に就くことです。私は動物と一緒に仕事ができたらとても楽しいと思います”。最初の頃に自己紹介をしてもらい、その声をICレコーダーで録って、繰り返し聞いて、生徒の名前と声を覚える」。
誰の声か分からなければ授業は成り立たない。では、生徒が声を出していない時はどうするのだろうか。「机の天板の裏に貼ってある生徒の名前の点字を触りながら位置を確認していきます。集中していくと、ペンの進み具合で“この子、ちゃんと書いてるかな”とか、そんなのも分かるようになります」。
■給食も、目が見えない人のことを知る大事な時間
生徒が授業に不安を持つようなことがあってはならない。それが信念だ。「1年生だと、見えない先生が盲導犬連れて教えるんだって知ると、“え?本当に黒板に字を書くの?本当に教えられるの?”って。そういうところからの出発ですからね」。
そんなヨシノリ先生について、生徒たちは「本当はもう見えてるんじゃないか」「普通の先生と一緒」「ちゃんと名前で生徒のことも呼んでくれるし、黒板に字を書いてちゃんとみんなに教えてくれるから、(他の先生と)変わらないと思います」と口を揃える。
給食の時間がやってきた。生徒が職員室を訪れる。「失礼します。2組のシュンスケです。ヨシノリ先生をお迎えにきました」。毎日、給食の時間には、生徒が迎えにくる。
先生の机に配膳された給食。すると生徒たちは「こんにちは!えーと、7時か8時くらいの方向にご飯があります。5時の方向に肉じゃがですね。11時の方向に牛乳があります。12時の方向に納豆があります」と、おかずやご飯の位置を時計の針の方向に例えて伝えていく。生徒たちに目が見えない人のことを知ってもらい、ガイドしてもらう大切な時間だ。
■34歳で視界を閉ざされ…それでも9年かけて復帰を果たす
3人の子どもたちは独立、今は中学校の音楽教師をしている妻と2人で暮らしているヨシノリ先生。大学卒業後、念願の教師となり充実した日々を送っていた28歳のとき、突然の悲劇が襲った。右目に網膜剥離を発症し、失明した。さらに左目も34歳で失明し、視界は閉ざされた。「真っ暗闇の世界に突き落とされたって感じですよね。今何時なんだか、朝なんだかも昼なんだかも分からずに。ただひたすら横になって、泣いてばかりでしたね」。
我が子の成長を二度とこの目では見られない…。1年近く自分の部屋に引きこもり、自殺も考えた。支え続けたのは妻の真弓さんだった。「初めは子ども3人、お父さんの4人で、どうやって生活していくかということしか考えることができなかった」。
点字の習得や盲導犬との歩行訓練を積み重ね、少しずつ日常を取り戻す中で湧き起こってきたのが、“もう一度、中学校の教壇に立ちたい”という思いだった。「しかし到底無理だろうと。教職員組合にさえ無理って言われてしまって。もう本当に誰からも受け入れられない…」。それでも同じ視覚障がいのある仲間の協力も得て、9年かけて復帰を果たした。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を朗読した生徒たちに、ヨシノリ先生は「私が苦しいとき、大変だったとき思わず口にしていた部分がどこだと思う?最後のところ。“ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ…ナリタイ”」と語りかけた。
■かつての“問題児”「一番心も開けたし、感謝してます」
たとえ両目が見えなくても、1人の国語教師としての実力を示さなければならない。かつての同僚、落合賢一さんは、定年退職後、ヨシノリ先生に授業の資料を読み聞かせる役を引き受けている。授業のための入念な準備。生徒の前で見せる、穏やかな表情とは一変する。落合さんが「空を飛ぶ鳥のように私は自由でありたい」と読み上げると、「もうそれは文節に区切ってある?」。
落合さんは、全盲のヨシノリ先生が生徒に与える変化を目の当たりにしてきた。「子どもがすぐに“ヨシノリ先生の役にたちたい”って思うようになって、授業にくるヨシノリ先生の荷物を持ちたがる。生徒の前にいるだけで、生きる力をつけることができる、そういう存在だって理解しましたね」。
去年2月、ヨシノリ先生は自宅近くの居酒屋で、かつての教え子・佐々木太一さんと再会していた。卒業して8年、就職して彼女ができたと報告にやってきたのだ。
「30年以上教員をやってきてね、私の教員生活を覆すような奴です(笑)」。当時の佐々木さんは、たびたび校内で暴れては、物を壊す“問題児”だった。それがヨシノリ先生との出会いをきっかけに変わったという。「先生と話すと落ち着きましたね、暴れたりしても、怒っていても、先生は普通に話しかけてくるんですよ。他の先生たちに押さえられていても、“おー、佐々木どうしたんだ?”、先生にそう言われると暴れ続けられないというか、怒れないというか…」。
「受け入れてくれる大人もいるんだというのを、一人くらいいないとまずいなと思ってね。人は変わるんですよ」と語りかけるヨシノリ先生。佐々木さんも「同じ大人でも、先生だけは、“いや、お前、周りがそういうふうに言ってるけど、そうじゃねぇよ”と言ってくれる唯一の人だったんですよね。一番心も開けたし、感謝してますよね」と打ち明けた。
■コロナ禍での授業…“物語の世界を感じてもらいたい”
新型コロナは学校現場に難問を突き付けただけでなく視覚障害者に大きな苦難を強いることになったのだ。声の強弱や息遣いで、生徒の変化を感じ取ってきたヨシノリ先生。マスクはその感覚を奪った。給食も、感染症対策で生徒たちとは別にとることになってしまった。
「今までの常識は通じなくて、コロナ禍の常識でやらざるを得ない。子どもたちにどうしたら良い形で思い出作りとか、記憶に思いとどめられることができるかなと模索しているところです」。生徒たちの間に広がる不安、閉塞感。ヨシノリ先生も、生徒のわずかな心の動きや、揺らぎを感じていた。「寝れなくなった」という声も寄せられる。全盲の教師として、授業を受け持つ71人の生徒たちに寄り添い、伝えられることは何か。これまでとは違う授業に挑んだ。
去年11月。おもむろに教卓の上に座ったヨシノリ先生。「皆さんこんにちは。平成の琵琶法師でございます。琵琶法師は、盲目のお坊さんが、この平家琵琶を使って平家物語を語ったのが始まりでございます」と、演奏を始めた。平家物語の「扇の的」を諳んじた。密かに琵琶の練習を積み重ねていた。
生徒にも、琵琶に触れてもらう。「これが特徴的だよね、これ何に見える? このヘッドの部分、海老尾、エビの尻尾。これが平家琵琶の特徴かな」。マスク越しだからこそ、目や耳の感覚を研ぎ澄まし、教科書だけではわからない物語の世界を感じてもらいたいとの狙いからだ。
生徒たちからは「すごいなあと思った」や「ちょっとウルッてきましたね。すげえと思って。もうヨシノリ先生しか出来ないと思いましたね」といった声があがっていた。
■定年までの1年、“あとに続く人”の支援活動も
今年4月。まもなく60歳を迎えるヨシノリ先生にとって、定年まで最後の1年に入った。その前に、どうしてもやっておきたいことがあった。それは“あとに続く人”の支援活動だ。
この日は高校の数学教師だった2年前に緑内障を患い、両目の視力を失った岡安秀展さんのもとを訪れた。教職復帰は無理かもしれないと諦めかけていた岡安さんがリハビリ施設で出会ったのがヨシノリ先生だった。「話しやすくて、親身になって相談に乗ってくれたし、頑張ればできるよと応援してもらえて、とても心強く励みになった」。
今年の4月、茨城県立古河第三高校で念願の復帰を果たした。13年前のヨシノリ先生が全盲の教師として新たに歩み始めた姿と重なる。「生徒を前にしてどうですか?」とヨシノリ先生。「1回目は緊張して、授業の時間配分がバラバラになっちゃって、汗はかくわ、声は上ずってしまうわで。教壇に立てただけでも、かなり嬉しかったですね」と岡安さん。「そうですよね。できることだけ一生懸命やるけどそれ以外は助けてくださいお願いしますという形で。ある程度開き直ることも必要かなと思いますので」とアドバイスしていた。
■「愛される人物なんだ、君たちは。」
生徒たちも、まだまだとまどいの毎日が続く。それでも学校に行けば、希望がある。そう信じて、ヨシノリ先生はいつもの言葉をつぶやく。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…」。1年生の時から共に歩んできた71人の教え子たち。最終学年の新学期がはじまった。
生徒たちを前に、ヨシノリ先生はこう語った。「今年で教員生活37年目です。ラスト・イヤーです。お前たちを卒業させて、自分も退職したい、ぜひお願いしたい、と強くお願いしました。もう時間は限られていますから、私も最大限努力します。応援します。ですからそれに応えてほしい。君たちのことは大好きです。誰もが君たちを愛しています。愛される人物なんだ、君たちは。だからそれは伸ばしていってほしい。
何があっても、君たちとなら乗り越えられる。その先に、きっと「光」があるから…。(テレビ朝日制作 テレメンタリー『全盲先生と142の瞳』より)