組織のトップにして、最も革新的。新たな事業を起こしたベンチャー企業の社長のような話だが、長い伝統を誇る将棋の世界でも今、それが起きている。日本将棋連盟の会長を務める佐藤康光九段(52)が繰り出す見たこともない将棋は、ファンだけでなく将棋関係者たちの目を丸くし続けている。かつて通称「島研」と呼ばれる研究会で、ともに腕を磨いた島朗九段(58)から見ても「(忙しくて)研究時間もないはずなのに、思いつきがすごい」と驚きが隠れない。直近の対局で指された銀を進める構想は、周囲から「棒銀」ならぬ「暴銀」とも呼ばれたが、それも全ては向上心に由来するものだ。
「暴銀」という言葉が生まれたのは、11月24日に行われた棋王戦挑戦者決定トーナメント、郷田真隆九段(50)との一局。後手番だった佐藤九段は、角交換の後に向かい飛車を採用した。ここまではいいが、振った側とは逆側の端歩を突いていたところに、守りに使うと思われた銀がそこを抜けて、するすると前線に躍り出ていった。全く見たこともないような、銀の単騎駆け。相手の郷田九段も驚けば、中継していたABEMAのコメント欄も「えー、なにこれ」「なんじゃこりゃ」「魅せる将棋」「あの銀どっから来たんだ」と、混乱と興奮が入り交じる声で溢れた。この奇策、形勢としては不利、劣勢を招いたが、最終盤に逆転した佐藤九段。この逆転勝利より、見たこともない銀の動きがファンの間でも大きな話題になった。
当然、島九段もこの将棋のことを知っている。「飛車落ちみたいな棒銀ですよね」と、駒落ちに出てきそうな指し方だと話すと、自由奔放な様子について「序盤の場合、評価値(勝率)が40%とかでも、好きな戦法とか得意なやり方があるので、振り飛車党の方は気にしない。佐藤会長なんて、わざわざ(勝率)30%ぐらいにしてから勝つのが好きみたい。他の追随を許さない人」と表現した。将棋ソフト(AI)の活用が当たり前になった時代で、少しでも数値が下がらない“正解”を探す研究が進む中、佐藤九段は全くこれにとらわれない。「さすがに他の若手も誰も研究できないでしょうとおっしゃっていた。評価値を低くして勝つのが快感なのかもしれませんよ」と、笑うしかなかった。
奇襲、奇策と聞くと、どうしても弱者が強者に向かって用いる攪乱のような印象も覚えることが多い。ただ、佐藤九段は“本筋”を学び、実践できる力をつけてから、独自のルートを開拓している。「羽生善治さん、佐藤康光さん、森内俊之さんといった世代は、鍛えが入っている。羽生さんが常々おっしゃっているのは、トップグループにいるのが大事ということ。そこから落ちない、そこにいること自体がトップの証し」と島九段が言うように、佐藤九段は会長職でどんなに忙しくても、順位戦ではA級を維持。今年度は王座戦で挑戦者決定戦まで進んだ。
「佐藤さんは奔放な指し方で知られますけど、30代後半ぐらいまでは定跡形(の将棋)が多かった」が、独自路線を進んだのは、タイトル99期を誇る羽生九段に対抗するためだった。「羽生さんとタイトル戦で戦ってもなかなか勝てない、負けている側が変えないとだめだと思ったそうです」と当時の佐藤九段の言葉を引き出したが、「負けている側といっても、年間7割ぐらい勝っている。7割勝っていたら、普通の人間は将棋を変えないですよね」。他の棋士を上回る勝率を残していても、羽生九段に勝てなければ意味がない。「それを変革したのが佐藤会長のすごいところ」と、島九段は絶賛した。度肝を抜いた「暴銀」を生んだ今年度、17勝9敗、勝率.6538という好成績を残しているのも、52歳にしてなお、若手よりもはるかに革新的な思考を持っているからこそだ。
現在、タイトルホルダーは10代の藤井聡太竜王(王位、叡王、棋聖、19)をはじめ、30代の渡辺明名人(棋王、王将、37)、20代の永瀬拓矢王座(29)で、40代以上はゼロ。ただ、変化が続く将棋界を自ら喜ぶように突き進んでいく会長・佐藤九段であれば、久々のタイトル獲得を実現しても、驚きはすれども、不思議と思う人はいないかもしれない。
(ABEMA/将棋チャンネルより)