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 10月16日、プロレスリング・ノアの福岡国際センター大会で、武藤敬司の「福岡ラストマッチ」が行われる。福岡の地で、プロレス史に残る試合を数多く展開してきた武藤敬司。その中でも、こと試合内容において最高の評価を得ているのが、1999年に新日本プロレスの5・3福岡国際センター大会で行われた、天龍源一郎とのIWGPヘビー級王座防衛戦だ。

 1999年と言えば、新日本プロレスマットが混沌としていた、まさに“世紀末”と呼べる年だった。1・4東京ドーム大会では、小川直也が橋本真也を一方的にボコボコにした通称「1・4事変」が起こり、さらに“邪道”大仁田厚が参戦。新日マットはこの二つの劇薬に揺さぶられ、話題を持っていかれていた。

 そんな中、武藤敬司は孤高のIWGPヘビー級王者として防衛戦を重ね、リング外の話題ではなく試合内容でファンを惹きつけてきた。武藤はこの時期の新日本の良心であり、“最後の砦”でもあったのだ。

 対する天龍は1998年2月に自身の団体WARを解散。いちフリーレスラーとして再び新日本に参戦。越中詩郎率いる平成維震軍と共闘するなどして、プロレス界のトップ戦線での生き残りを懸けた闘いを続けていた。

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 そんな両者によるタイトルマッチは戦前「ミスター・プロレス対決」と呼ばれ、小川直也と大仁田厚に荒らされはじめた新日マットにおけるプロレスの本道を見せる闘いとしてファンに歓迎され、福岡国際センターは超満員のファンで膨れ上がった。

 そして実際の試合も「ミスター・プロレス対決」と呼ぶにふさわしい闘いとなった。武藤が得意のドラゴンスクリューからの足4の字固めで追い込めば、天龍も延髄斬り、パワーボム、WARスペシャルと代名詞となる技を惜しみなくつぎ込んでくる。

 さらに天龍は、この試合のための秘策を用意していた。ムーンサルトプレス狙いでコーナーに上がった武藤を初公開のスパイダー式ジャーマンで投げ捨て、さらに勝負どころでは武藤をコーナーに乗せて雪崩式フランケンシュタイナーを敢行!
 
 この時、天龍は49歳。大ベテランがさらに新境地を開拓するかのような意外すぎる技の連発に館内は熱狂。それでも武藤はこれらの技をしのぎ切ると、こちらも秘技である浴びせ蹴りから切り札のムーンサルトプレスを発射し、カウント3を奪取。

 当時、すでに武藤のムーンサルトプレスは、ドームクラスの会場でなければ見られないプレミアムな技だったが、福岡国際センターでの天龍戦は、武藤にそういった“制約”を取っ払わせすべてを出させるほどの一戦だったのである。

 結局、この試合は1999年度の「プロレス大賞」で年間最高試合賞を獲得。全日本プロレス育ちの天龍とベストバウトを残したあと、武藤は「この先の夢として、三沢とか川田がいたよ」と、当時は本当に夢でしかなかった全日本四天王との対決を望む発言を残し、それはどちらも2000年以降、(三沢戦はタッグながら)実現することとなった。

 そういった意味で、1999年の天龍源一郎との一戦は、武藤がさらに「プロレスLOVE」の道を邁進していくきっかけともなったのである。

文/堀江ガンツ 

写真/週刊プロレス

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武藤敬司引退ロード特設ページ|プロレスリング・ノア
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