千原ジュニア、血気盛んな大阪時代に路上で引き起こした“伝説の2分間”とは? フジモン「かき消したい過去」
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「とにかくフジモンさんが唇も乾燥して白くなってましたから」

 お笑い芸人の土肥ポン太がこう振り返るのは、若き千原ジュニアが血気盛んな大阪時代に引き起こした、日本芸人史に残る“伝説の2分間”の出来事。それを模したABEMAの新番組『お笑いストリートファイト』が8月9日に放送開始されるが、『ABEMA的ニュースショー』は当時どのようなことが起きていたのか、真相に迫った。

【映像】“ジャックナイフ”時代の千原ジュニア

 今をときめく人気芸人たちがまだ若手と呼ばれ、大阪を舞台に切磋琢磨し、喧嘩もしながら爆笑という拍手喝采を夢見ていた時代。場所は心斎橋、1980年後半に栄華を誇り、ダウンタウンやWコウジら人気芸人を多く輩出した伝説の劇場があった。それが、「心斎橋筋2丁目劇場」。千原少年が15歳でデビューした時は、この劇場から人気芸人が一斉に卒業した年だった。

<夕方から深夜にかけて入っていたラーメン屋のバイトをやめて、西成で早朝から夕方までの日雇い労働を始めた。毎日、舞台そでで笑いを観た。毎日、舞台そででネタを観た。スタンドマイクを出すのにじゃまだとスタッフに言われた。コントのセッティングをするのにじゃまだとスタッフに怒られた。そして「もう来るな」と言われた。僕は「すいません」と謝って、次の日も舞台そででネタを見た>(『3月30日』千原ジュニア/幻冬舎よしもと文庫)

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 デビューして3年。千原兄弟は賞レースで結果を残し始め、レギュラー番組を持つようになるなど、早くも頭角を現す。いつしか千原少年は2丁目劇場の看板芸人となっていたが、その裏では“ウケなければ終わり”という壮絶な戦い。殺伐とした大阪で、ジュニアは「ジャックナイフ」と呼ばれ、仲間からも一目置かれる存在だった。

 劇場ではもちろんのこと、舞台が跳ねた後にストロングスタイルの笑いを追求していた2丁目軍団。居酒屋で大喜利をしていた時、陣内智則が飲み過ぎて倒れてしまった様子を見て、ジュニアが「救急車来るまでこの光景におもろいタイトルつけてみよか?」と提案したことも。

 サバンナの高橋茂雄はこう振り返る。

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「当時、飲んでる時にジュニアさんが大喜利とかやってるの嫌でしたもん。でも、やっぱりすごい人やなと。当時『すんげー!BEST10』っていう番組があって、千原兄弟さんがMCだからネタのバトルには入ってきてなかったんですけど、下の皆さんは『ジュニアさんが逃げてる』みたいな話をよくしてはったんですよ。それを『たこしげ』っていう居酒屋のマスターが言いつける。普通、MCやからまあまあって感じですけど、当時の支配人に言って『俺も出る』ってなって。ネタの勝負のほうにも参加して、ちゃんと結果出すっていうのがすごくかっこよかったですね」

 そんな今もジュニアが足しげく通う居酒屋「たこしげ」のマスターにも話を聞いた。

「(後輩らが)『同じ土俵で勝負せえよ。何をMCやってフリートークだけやっとんねん』と。お前、しょうもないやつにそんなこと言わせるレベルの人間じゃないやろと。ほんならドーンと立ち上がって『帰る』。お店を出る時に『ありがとう』って言って帰って行った」

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 当時ジュニアらが活躍し、主戦場としていた2丁目劇場は、1986年にオープンし、13年後の1999年に閉館した。千原兄弟を看板芸人に採用したのは、当時支配人だった比企啓之氏。

「20歳の誕生日の時に、2丁目劇場で灰皿とタバコだけ置いて1~2時間ひとりしゃべりしてたんですけど、『こいつすごいな。絶対天才やな』と思いましたね。2丁目出てるやつはもう一癖も二癖もあるし、破天荒さというか。楽屋でやること、飲みに行って暴れることも含めて、なんか久しぶりに芸人を感じたんですよ。“本当にやる気あるやつ自由に集まれ”っていう戦場を作りたかったんですね。それが『うめだ花月』も新人(オーディション)をやるようになって。うめだ出る人間は2丁目に出たらあかんっていうことを社員の人が言うようになって、2丁目とうめだのバトルが始まったんですね」

 当時、2丁目劇場のほかにうめだ花月があり、出演する劇場はそのどちらかにほぼ固定されていた。千原兄弟は関西ローカルの人気番組を生み出し、若者の新たなカリスマに。単独ライブでは3000席以上の大きな会場も埋め尽くすなど、後輩芸人にとっては憧れの存在となった。

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 一方、一足先に東京へ進出した「吉本印天然素材」が大ブレーク。お笑い研究家のテラシマニアックは「天素さんもコントとかやってましたけど、やっぱりダンスとかちょっとアイドル的なものが多かったので。それよりゴリゴリにお笑いやってる2丁目劇場軍団のほうに(大阪の客が)流れて行ってることが多かった」と語る。

 天然素材のメンバーだったFUJIWARA藤本敏史は東京から拠点を大阪に戻し、うめだ花月を主戦場に。天然素材の弟軍として生まれた「フルーツ大統領」というユニットには、若き日の小籔千豊の姿も。当時「スキヤキ」というコンビを組んでいた土肥ポン太もメンバーだった。

「ナイナイさんとか雨上がりさんとか、皆さん東京行きはって、客席も人が満杯やったのがみるみるうちに減っていって。かたや2丁目見たらブームに乗って、もう“テレビで見る人ら”みたいになってましたから」(土肥ポン太)

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 うめだ花月に戻った東京進出組が東京でスポットライトを浴びている間も、ジュニアら2丁目劇場組は大阪の地で腕を磨き、新しい笑いを追求し、開花させていた。

「小籔さんとか土肥さんは、たぶんこっち(2丁目)に対して『負けてたまるか』っていう気持ちがあったと思うんですよ。FUJIWARAさんは東京に1回行って、勝負した上で大阪に戻ってきてるから、すごく肩身狭そうにしてはった時代なんですよ、たぶん」(サバンナ・高橋)
「当時、心斎橋2丁目軍団がすごい勢いあった。歩いてる人がみんな道をあけるみたいな」(FUJIWARA・藤本)

 お笑いのキャリアを重ねた同期の2人が、運命の糸に引き寄せられるように同じ場所を目指していた。1995年、心斎橋の戎橋、通称“ひっかけ橋”。ジュニアは2丁目の後輩、ケンドーコバヤシ、陣内智則、サバンナ・高橋を引き連れて歩いていた。その向こうからは、FUJIWARA・藤本を筆頭とする、小籔、土肥ポン太、COWCOW・多田といううめだ花月軍団が歩いてくる。

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「ジュニアとサバンナ・高橋とケンドーコバヤシが向こうのほうから歩いてくるのが見えたんですよ。その時になんか不穏な空気を感じたというか。引き返したかったんですけど、後輩もいるし、そんな姿見られるのも」(FUJIWARA・藤本)

 そこで口を開いたのはジュニアだった。

「これはこれは、うめだ花月の皆さん。こんなところで会うのも何かの縁ですから、『お笑いストリートファイト』でもやりましょか?」

 この場所でどっちが面白いか勝負をつけようと提案したのだ。その場にいた誰もが引きつった笑いで、互いの距離感を確かめているようでもあった。

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「当時ジュニアと飲みに行ったら、後輩が大喜利させられるって噂も聞いてたから、必死で『何言ってんねん!』みたいな感じやったのは覚えてますね」(FUJIWARA・藤本)

 小籔だけが「やりましょうや!」と肩を回して意気込む中、うめだ花月軍団はその場を去った。これが今も日本芸人史の1ページに刻まれている伝説、“戎橋での2分”だ。

「もうやる前から正直、僕の中では負けを確信してましたね。覚えてるのは、小籔が先輩にはやってはいけない蔑んだ目。言うとるんですよ、『情けないですわ、藤本さん』みたいな。情けない姿見せましたわ、後輩に。かき消したい過去みたいな」(FUJIWARA・藤本)

 一方で、2丁目劇場元支配人の比企氏は、「千原ジュニアっていうのは、本当は悲しいものを背負ってるはずなんです。向こうは怖がってるパターンが多いんですけど、あいつ自身はさみしがり屋やから、たぶん友達になりたかったはず。だから、『うめだ軍団』さんって言ったのは親愛なるジョークやと思いますけどね」との見方を示した。

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 この「お笑いストリートファイト事変」を取材した元週刊SPA!副編集長の田辺健二氏は「28年前の出来事なので、当事者たちの記憶が食い違っているのが面白い。ジュニアさんは4対4だったと記憶しているけど、他の方は3対3だったと。」

 これにはジュニアも同意。「3対3だったらしいね。内と多田はいなかったみたい。記憶もぼんやりしているけど、一つだけ全員が合致しているのは、はっきりと俺が第一声『これはこれはうめだ花月のみなさん。お笑いストリートファイトでもやりましょか』と言ったこと。これはゆるぎない事実」

 また、今のジュニアに対して、比企氏は「なかなか売れない期間から、さらに勉強して世間にウケるジュニアになったかもしれないけど、20歳の時に持っていた“ソリッド”な感じはやっぱり封印していると思う。やっと世間の波長と喋ること、年齢・顔つきが合ってきたからこそ、あの時の“ソリッド感”をもう1回研ぎ直して、それを出す時だと思う。ぜひ頑張ってください」とのメッセージも送っている。

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 これをスタジオで見たジュニアは、「この方がいなかったら今の俺はいない。その20歳のイベントっていうのも、比企さんが企画して“とにかくお前1人で1、2時間喋れ”と。ただおもろかったら何やってもええという空気と、時代でやってましたから。“今まで誰もやってない笑いを”というところ、もう1回そこに向き合わなあかんかなと思います」と心を新たにしていた。(『ABEMA的ニュースショー』より)

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