静岡一家放火殺害事件、通称「袴田事件」をめぐり、検察が再審で有罪立証する方針を示した。東京高裁判事や最高裁調査官を歴任した、ひいらぎ法律事務所の木谷明弁護士は、背景に「検察が一番偉い」との考え方があるのではと指摘する。
「『一番真実を知っているのは検察だ。弁護人なんていいかげんなこと言っている』と。裁判所は真実から遠く、俺たちが言ってるのが真実。検察の言い分が通らなければ『そんなばかな話はあるか』というわけだ」(木谷弁護士)
木谷弁護士は裁判官として約30件の無罪判決を確定させ、周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』に登場する裁判官のモデルとなった、「人権派」として知られる人物だ。
「検察にも無びゅうの原則というのがあるらしい。『無罪になったのは全部裁判長が間違えているんだ』と。そういう人達は冤罪に苦しむ人の立場なんて考えない。真実に一番近いのは俺たちだと思い込んでいる」(木谷弁護士)
こうした「思い込み」と57年間戦っている人物がいる。静岡県浜松市に住む袴田ひで子さん(90)は、人生の大半を「弟の無実」を晴らすために生きてきた。死刑確定から42年経つ弟・袴田巌さん(87)は、冤罪であった可能性が極めて高く、無罪への再審の扉が開いたものの、いまも被告であり死刑囚のままだ。
袴田事件の概要を説明する。静岡県清水市(当時)で1966年6月、みそ製造会社の専務の自宅が全焼し、一家4人の遺体が発見された。4人は刃物でめった刺しにされていた。約2カ月後に従業員で元プロボクサーの巌さんが、強盗殺人・放火事件の容疑で逮捕される。
巌さんは当初否認していたが、猛暑のなか連日連夜トイレに行かせないなど、違法性の高い取り調べを受けて自白。検察は、のちに裁判所からねつ造の可能性を指摘される「5点の衣類」を証拠に、死刑を求刑。巌さんは裁判で一貫して否認するも、事件発生から14年後の1980年に死刑が確定した。
巌さんを支援するボクシング元世界ジュニア・ミドル級王者の輪島功一氏は、静岡へ何度も訪れたと振り返る。
「向こう(捜査側)も頭いいけども、口を滑らす。『いや輪島さん、ボクサーだからね』『ボクサーだからやったんじゃねぇか? ってみんなそう思ってますよ』。じゃあボクサーはバカなのか、この野郎! と」(輪島氏)
1981年に行われた最初の再審請求は棄却された。しかし姉のひで子さんや支援者、弁護団による独自の検証を通して、2度目の再審請求を申し立て。静岡地裁の再審開始の決定を受け、死刑執行は停止され、巌さんは2014年3月、48年ぶりに釈放された。
これまで死刑判決から再審となった事件は、免田事件(1948年)、財田川事件(1950年)、島田事件(1954年)、松山事件(1955年)の4件で、いずれも無罪になった。また、無期懲役が確定していた足利事件(1990年)、布川事件(1967年)の再審でも、無罪判決が出た。巌さんの再審決定も、事実上無罪になる可能性が極めて高いとされる。
しかし検察は2023年7月10日、再審に向けて「(袴田)被告が犯人であると立証する」と表明した。これについて木谷弁護士は、長年にわたる「組織の体質」があると分析する。
「制度の趣旨から言うと、検事が公判で有罪立証したいということ自体は間違えではない。ただ、再審請求審の段階でいろいろな立証をやりつくしたのに、それを前提にもう1回公判でやり直すというのは筋が通らない。検察としては『検事が起訴した事件に間違いはないんだ』と言い張りたい。たまたま無罪となったのは『裁判長は間違っていた』と言えば済んでしまう」(木谷弁護士)
冤罪や司法制度の問題に詳しい映画監督の周防正行氏は、「袴田事件での警察・検察の対応は、権力の暴走で憲法違反。人権感覚ゼロの傾向は年々高まっている。我々自身もなめられていることを自覚し、声を大にして反発しなければならない」と指摘する。
袴田事件を長年追い続けている『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)の著者、元朝日新聞記者でジャーナリストの小石勝朗氏は、2006年に朝日新聞静岡総局に異動した当時、事件を取り上げるマスコミはほぼなかったと語る。小石氏によると、朝日・読売・毎日・日経の新聞4紙で出た記事は、再審開始決定が地裁で出た2014年は年間425本だったが、赴任前年の2005年は年間7本しかなかったという。「小さな記事でも発信して、まだこの事件動いているんだよと知らせたい」(小石氏)。
『ABEMA的ニュースショー』は7月14日、静岡市清水区の現場を訪れた。手入れのされていない緑のなかに、ひっそりとたたずむ石造りの蔵。外壁には火災の痕跡のようなものが残る。近隣取材では、事件について答えてくれる人に出会うことはできなかった。
「闘う姉」である、ひで子さんに話を聞いた。巌さんは6人兄弟の末っ子。3歳上の姉であるひで子さんは、年が近かったこともあり「母親代わり」だったという。
「最高裁で(無罪が)棄却された。その時にいる人、弁護士さんから支援者まで全部敵に見えた。こっちは本当のことを言っているのに『犯人だ』なんて言うから、なんだこいつらと」(ひで子さん)
その時から、ひとりでも闘い抜く決意をした。近所付き合いがなくていいように、59歳で住宅ローンを組んで建てた自宅も、そうした決意の表れだ。当初は巌さんと一緒に暮らすとは思わず、「借金でもしてりゃ自殺もしないだろう」と、自分自身の「生きる希望」として建てたと振り返る。
再審への扉を開いたのは、検察側が開示した証拠品「5点の衣類」だ。これらは事件から1年2カ月後に、みそタンクから従業員が発見したとして検察側が提示し、死刑判決の決め手とされた。しかし1年以上、みその中に保管されたという衣服に付着した血痕は、のちに開示されたカラー写真で見ると、鮮明なほど赤かった。しかも一審では当初、犯行時の着衣はパジャマとされていた。検察側が証拠としていた返り血をあびたシャツは、鑑定の結果、血痕ではなかったという。
静岡地裁は2014年、証拠とされた衣服は合理性を欠くとして、再審開始を決定した。巌さんは死刑囚ながら釈放されたものの、決定を不服とした検察が即時抗告し、再審開始が一度取り消されるなど、さらに9年もの月日を戦い続けることになった。
「(本来は)国のやること。今やる係の人も生まれてなかったころの事件で、検察官も転勤したりする。担当者はその度に変わる。2014年に巌が出てきたときに、勝負はついていると思う。それをあーでもない、こーでもないと、引き延ばしている。向こうは必死でねつ造を薄めようと思っているから、好きにやらせとけばいい。57年闘ってるんだから、2年や3年どうってことない。まだ、そう簡単には死ねないから。長生きします」(ひで子さん)
ひで子さんの思いを聞き、小石氏は「何かもっと力になれなかったのかなと、本当にやるせない」と語る。木谷弁護士もまた「(検察は)亡くなってくれればこれ幸い、と思っているのでは? それはよくない」と指摘。冤罪で苦しんでいる間に亡くなっている人もたくさんいるとし、「裁判所もだらしない。もうちょっとしっかりしてほしい」と訴えた。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
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