9月23日、立憲民主党の新代表に野田佳彦衆議院議員(67)が選出された。そんな野田氏が38年間、毎朝続けているのが“ビラ配り”だ。そこには政治家としての“原点”が深く関係しているという。
かつて総理大臣も経験した野田氏だが、38年間、ほぼ毎日駅前に立ち、自身が書いた“かわら版”と呼ばれるメッセージを通勤客に配り続けている。なぜそこまでするのか。それは松下政経塾時代の師匠・松下幸之助氏の「人が集まるところで皿回しをして、足を止め、意見を聞いてもらう」という教えからだ。野田氏は皿回しの代わりに自身でビラを配ることを選んだ。
7月11日、ABEMA的ニュースショーでは野田氏に密着。朝6時の千葉・JR津田沼駅前でビラ配りに勤しんでいた。「葛藤。つらいなといつも思いながら立っている」。
天気にかかわらず街頭でのビラ配りを続けてきたが、毎日が快適な朝ではなかった。なかでも、JR津田沼駅の北口に立った「一番つらかった日」を振り返る。「105票ですからね……」。
1980年、大学卒業後、松下幸之助氏が私財70億円を投じて設立した、指導者育成を目的とした私塾「松下政経塾」に、第1期生として入塾した。全寮制で5年学ぶなかで出会った、同い年の“マブダチ“が、静岡県の鈴木康友知事だった。
「普段は非常に寡黙でおとなしい。あまり余分なことをしゃべらない。『なんかとっつきにくいやつ』が第一印象だったが、話してみると『こいつスゴイな』となり、気が合って寮で酒を飲みながら、いろいろな話をした」(静岡県・鈴木康友知事)
松下政経塾を卒業した野田氏は、「地盤・看板・カバン」のないなか、松下氏の教えに従って、ビラを配り続けた。鈴木氏いわく「本当に当時は、政治の世界は、雲の上の存在で、5億円あれば当選するが、4億円で落ちる「5当4落」なる言葉もあった。庶民が近づける世界ではないが、とにかくハンドマイク1本持って、有権者に思いを語りかけるところからスタートしないといけない。それを愚直に実践したのが野田氏だった」という。
自民党はその頃、リクルート事件や東京佐川急便事件など、政治とカネに揺れて分裂した。野田氏は1993年、細川護熙氏が率いる日本新党から、衆議院議員選挙に出馬し、初当選した。その総選挙で宮澤喜一内閣は総辞職し、自民党は野党へ転落。細川連立政権が誕生。
1994年の政治資金規正法改正によって、企業・団体献金の対象は政党などに限定され、パーティー券購入者の氏名の公開基準は100万円から20万円に引き下げられた。政党助成金制度も導入された。同じ政党の候補者同士が利益誘導を争うとして、衆議院は中選挙区制から小選挙区制に改められた。
これらを実現する政治改革四法は1994年に成立し、1996年に小選挙区制で初めての総選挙が行われた。そのとき鈴木氏も、野田氏の地元に泊まり込み、選挙を手伝った。
「1カ月以上、船橋に泊まり込んで、ずっと応援していた。最初から『金権政治を変えなきゃいけない』という強い思いがあった。当時は『金権千葉』と言われ、政治にお金が乱れ飛んでいた時代で、彼なりのやり方で突破しようとしていた」(鈴木氏)
しかし、現実はつらいものだった。野田氏は「200票以上勝っていたので、逆転はないだろう」と回顧する。鈴木氏は「『当選』の知らせが入り、今から祝杯だ……となった時に、ある方が『残票整理が残っている。もうちょっと待て』と。そこからが長かった」と説明する。最終的に野田氏は、わずか105票差、惜敗率99.9%で落選した。
野田氏は「異常な負け方。1万票とか開けば力不足だったと言えるが、負け方が悔しい。敗因分析が頭にめぐり、とても心の整理ができない」と当時に思いをはせ、鈴木氏も「本当にショック。50票をひっくり返せば当選するわけですから」と振り返った。
失意のまま自宅に帰った野田氏に、ただ1人寄り添ったのが鈴木氏だった。祝杯として飲むつもりだった日本酒「久保田 萬寿」を2人で酌み交わす。野田氏は「ほとんど会話がない。ずっと無言で黙々とグビグビ飲み続けた」と語る。一方の鈴木氏も「かける言葉がない」交わす言葉もなく飲み続け、朝を迎えた。野田氏はおもむろに立ち上がり、「そろそろ行かなきゃ」2人はそのまま津田沼駅前で辻立ちを行った。
「日本一の死に票だった。酒臭い息をぷんぷんさせながら、『ありがとうございました』と頭を下げて、鈴木氏も付き合ってくれた」(野田氏)
「一票の重さ」と、有権者との向き合いの大切さ、そしてつらい朝の経験から、「ビラまきはやめられない」と強く語った。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
※この記事は、2024年7月16日に掲載した記事を再編集したものです。
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