ネット上では死亡説が流れ、一発屋扱いされることも…絶頂期に引退の真相
ーー“三木道三”さんで、今はよろしいんですか?
道三「道三と言ってもらえれば。今"DOZAN11"という名前でアーティスト活動しています。ただ、三木道三という名前の知名度、なかなか上回れないので、両方併用していますね」
日本のレゲエシーンに大きな影響を与えた道山。なぜ、絶頂期に引退という道を選んだのか。
道三「引退してすぐブラジルに行って、そこで、前々から悪い体の箇所を直したいなと。手術したいなと」
24歳の時、アメリカ留学中に負ったケガが引退を決めた1つの理由だという。
道三「LAからラスベガスに走っているインターステートっていう高速道路みたいな所なんだけど。そこで車がスリップして何回転か転がって、顔の骨と一緒に歯が3本飛んで、膝の皿がまっぷたつになって、右足のつま先が複雑骨折して。47都道府県ツアーを『Lifetime Respect』発売した後やったんだけども、あちこち交通事故&手術の影響もあって体のあちこちで引っ張り合って膝は曲がらないし、肩は上がらんし、腰は痛いしで、これちょっといっぺんもう一回メンテナンスしたり手術し直したりしたいなとかも思ったし」
そして、体の理由のほかに、心の理由も。
道三「そもそもレゲエをやろうとしたのは、欧米のいわゆる奴隷の子孫たちが、ジャマイカとかそういうところで劣悪な環境ながら自分たちの文化を誇りを歌って世界の音楽にイノベーションを起こしている。これを『よし、日本に持ってこよう』っていうのが、実は僕の出発点なんですよ。だから音楽が好きだからやり始めたと言うよりは、社会活動っていったら大袈裟ですけど、日本にとってポジティブなことをしてそういう存在になりたかったって言うのがあります。そのつもりでやっていたんですけど『Lifetime Respect』辺りで30歳ぐらいになっていて、ジャマイカの音楽が結構面白くなくなってきたっていうのが音楽的にもそうだし、あとどんどん出てくる新しいアーティストってもう10歳とかそれ以上歳の若いストリート出身の不良たちなので。その不良カルチャーもジャマイカの音楽の真ん中にあるものなんですけどね。それをこのまま日本に輸入してくるのってどうなんかな、と疑問を持ち出して一回引退したって言うのもあるんですよ。『日本にとって良いことしたいな』と思って、手段としてレゲエを見つけたものの、もうレゲエはそう言うものじゃないのかもしれないなと思って」
レゲエから心が離れ、曲がヒットした翌年、引退を決めたという。その後、ネット上では死亡説が流れ、一発屋扱いされることも…
道三「売れたいとか、表に出たいと思ってスタートしたわけでも、その時いたわけでもないので、そこを離れて悲しくも惜しくもなんともない。ジャパニーズレゲエシーンを作りたいと思ってたので、テレビに出たいっていう気持ちが全然なかった。ごめんね長くて。よくある『シーンから離れてなんで俺は今こんなことをしてるんだろう、悔しいな』とか、あと『ああ、あの人に干されたせいで今俺は不遇だけど何とか戻ってやろう』とかでもなくて。申し訳ないけどごめんね、不機嫌そうに言っちゃって。そうじゃないんだっていうのがやっぱり伝えなきゃしっくりこないんでね」
表舞台への未練を残さずに引退したあとは、アーティストへの楽曲提供という形で音楽活動を続けたという。
そして、マイクを置いてから12年後の2014年。三木道三は“DOZAN11”と改め、アーティストとして復帰した。
道三「2011年の3.11で、僕なんかもう周りのアーティスト仲間がいろんな物資を集めたりお金を集めたりして、実は僕もトラックに乗って一緒に届けるのに参加したりしてたんだけど。フロントマン辞めてたからあんまりそういう表立った動きはしなかったけど。やっぱりアーティストでフロントマンでってことは、いざいろんなことが起こっている時に何か役割を果たせるんだなっていうのを見て。募金集めるにしろ、元気出そうぜっていうメッセージを発信するにしろ、できることたくさんあるんだろうなっていう」
未曾有の震災に、若いころ抱いた「日本にとって良いことしたいな」という思いが込み上げ、活動を再開したという。
24年前とは違う気持ちで歌う『Lifetime respect』
