マーリンズのイチロー外野手(42)が7日(日本時間8日)、ロッキーズ戦で右越え三塁打を放ち、メジャー通算3000安打を達成した。試合後の記者会見で、イチローは「誰に感謝を伝えたいか?」という質問に対し、こう答えた。
「3000を打ってから思い出したことは、このきっかけを作ってくれた仰木監督ですね。神戸で2000年の秋に、お酒の力を使ってですね、僕が口説いたんですけど、その仰木さんの決断がなければ何も始まらなかったことなので、そのことは頭に浮かびました」
■メジャーリーガー「イチロー」は故・仰木彬氏から始まった
遡ること22年前の1994年。当時、オリックス・ブルーウェーブで新監督として就任したばかりの仰木監督は、時を同じくして1軍打撃コーチに就任した新井宏昌氏の提案で、プロ3年目を迎えたばかりの鈴木一朗(当時20歳)をカタカナの「イチロー」で選手登録した。仰木監督はイチローのことを入団時から知っており、その当時は「モヤシみたいな子」と思ったという。(※1)
ところが、オリックスの監督に就任が決まった春、キャンプで再びイチローを見て「最初からレギュラーにしようと決めた」そうだ。前年まで1軍と2軍を行き来していたイチローだったが、仰木監督はプロ野球選手としての素質を見抜き、その年、1軍レギュラーで起用。当時、イチローは「僕は監督によって一度死にかけた命を生き返らせてもらったと思っています」と語っている。
それに対し、仰木監督は「命を生き返らせたなんてとんでもない。イチローはエネルギーをため込んでおり、それを爆発させただけですよ。そのエネルギーの咲かせ時に、たまたま私が出会っただけです」と答えている。(※1)
仰木監督は、ヒットが出ない時もイチローを試合に出し続けた。そして、イチローはそれまで前人未到であった「210安打」という大記録を残したのである。
■一度はメジャー行きを反対した仰木監督
イチローは1999年のオフに一度メジャー行きを諦めている。(※2)その理由が仰木監督だ。行きつけのレストランで夕食を食べていた際、仰木監督がその場に現れ「俺が監督をやっている限りは行かせない」と言ったそうだ。イチロー自身は1996年の日米野球以来、メジャーリーグでプレーすることに興味を待ち、球団にもその旨を伝えていたという。
ところが、仰木監督は「絶対に駄目だ」とメジャー行きに断固反対を示した。そして「俺と一緒にやってくれ」「どうしてもお前という戦力が必要だ」と言ったそうだ。イチローは仰木監督にそのような言葉を言わせていしまったことが「辛かった」と語り、メジャー行きを踏みとどまった。しかしーー。
翌年、イチローは「仰木監督を口説いた」。仰木監督はそこでイチローを後押ししたという。それが、この度のメジャー通算3000安打に通ずる「0(スタート)本目」だったのだ。
仰木監督は、若手選手を使い続けることに対し「選手というのは、我々の想像を超えるような能力を持っているものなんです。それを発揮する場をどうつくってやるかでしょう。やみくもに辛抱よく使うだけではありません。辛抱しがいのある選手かどうかが問題です(※1)」と述べている。
イチローはその言葉を世に知らしめるような活躍をし続けている。オリックス在籍時は、2001年にシアトル・マリナーズに移籍するまで7年連続で、首位打者、ゴールデングラブ賞、ベストナインを獲得。メジャーリーグ移籍後も10年連続200本安打、シーズン最多安打262本など数々の「偉業」を果たし続けている。そこには、どれほどの「イチロー自身の辛抱」があったのか。会見や書籍などで語られた、いくつかの苦悩は、その一端にしか過ぎないだろう。しかし、仰木監督はイチローが「対自分」への辛抱にも耐え続けられる選手だということさえも、見抜いていたのではないだろうか。「イチローならやれる」と。
これまで、イチローの「歴史的出来事」として、数々の安打や走塁、送球が取り上げられきた。今回のメジャー通算3000安打も間違いなくその中のひとつだ。しかし、数字や映像で残るものだけがイチローの「歴史的出来事」ではない。イチローと仰木監督との出会いこそ、イチローが今日に至る全てを語る上で欠かすことのできない「歴史的出来事」だと言えよう。
<参考文献>
※1. イチロー物語 (中公文庫) 佐藤 健 1998/5
※2. イチロー総監督 インパクト! ICHIRO全記録 イチローすべてを語る 28時間マラソンインタビュー (新潮45) 2000/4
(テキスト・イラスト 小原由未恵)