2005年の4月25日午前9時18分。7両編成で約580人の乗客を乗せたJR福知山線の快速列車がカーブを曲がりきれずに脱線した。先頭2両が線路脇のマンションに衝突し、2両目は激突した衝撃で折れ曲がり、1両目はマンションに潜り込んだ。事故が起こったのは、列車は塚口駅から尼崎駅に向かう途中で、制限速度は時速70キロだったが、時速115キロで進入しブレーキの操作が遅れた。
 当時、早急な救助活動を行ったのが、事故現場からおよそ50メートルの場所にある機械メーカー・日本スピンドル製造株式会社だ。当時の時田誠総務部長は「すごい衝撃音を聞いて、このドアから飛び出していった。そうするとマンションの向こう側にすごい土煙が上がっていた」「現場に確認に行くと、電車が脱線していて、負傷者の方たちがたくさんいた」。時田氏は脱線事故が起こったことを社長に報告。すると社長は食堂に全従業員を集め「直ちに全ての操業を停止し、全員、救助活動にあたれ」と命じた。