■「信仰というより文化だった」
1995年の地下鉄サリン事件など、数々の凶悪事件を引き起こしたオウム真理教。一連の事件を主導、信者たちを指揮したとされる教祖・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚の三女・松本麗華さん(34)に、"麻原彰晃の娘"としての人生を振り返ってもらい、犯罪加害者の家に生まれた子どもを巡る環境について考えた。
麗華さんは5歳の時にオウム真理教の施設に引っ越した。小学校には通っていなかった。
「学校に行かず、父の介助です。一日のほとんどの時間が潰れます」。
普通の家族とは異なる暮らし。自分よりも教団を優先する父の姿に、子ども心に疑問もあったようだ。
「私からしたら何もいいことはないんですね。なんで家族を選んでくれないのって」。
父親と幹部たちの間で交わされていた会話に、何か事件と関連するものはなかったのだろうか。
「教育を受けていないので、日本語でも意味が分からないんです」。難しい言葉になると十分に理解できなかったそうだ。
罪を犯した信者たちはオウム真理教の教義に忠実だったというイメージもある。しかし麗華さん自身は、教団の教えは「信仰というより文化だった」と考えている。
「例えば、虫を殺しちゃいけないとか、物を盗んじゃいけない、嘘ついちゃいけないというような、仏教的な思い、文化でした。私にとっては、みなさんが考えているようなマインドコントロールや洗脳という形での信仰はなかったと思います」と話す。
■ 当初は事件報道が信じられなかった
1995年の事件当時11歳だった麗華さんは、「アーチャリー」というホーリーネームを与えられ、松本死刑囚や幹部が身近にいる環境で生活を送っていた。当初、"不殺生の教団が人を殺した"という報道や、警察のことが信じられなかったという。
「警察官には、父が逮捕され、私が泣いているところを撮られたこともあります。もし、警察の人たちが優しく、モラルがある人たちだ、と感じることができていたら、信者たちも"やっぱり警察の方が正しい""社会の方が正しい"という考えを持てたのではないでしょうか」。
父が逮捕されると、麗華さんの生活も一変した。教団関係者と共にオウム真理教の施設を出て、福島県内に移り住んだ。しかし、学校への入学は拒否される。同世代の子と遊びたいという夢も遠ざかった。
「住民票も作ったので、これで私も学校に行けるんだなって思いました。でも、うまくいかなくて。中学校も、小学校を卒業してないから入れないとい言われました。私、部活が夢だったんですよ。体操がやりたかった」。
■ 自殺を図ったことも
勉強の末、中学卒業認定試験を受け、合格した。しかし、またしても高校に入学を拒否された。そんな中、一校だけが麗華さんを受け入れた。一年遅れでの高校入学だった。
「麻原の娘だとはバレなかったと思っていたんですけど、実際はそうではなく、教員が話し合いの場を持ったらしいんです。そこで"教育者として受け入れるべきだ""ここで受け入れなかったら教育者じゃない"という人もいてくださったて、そうした方々が責任を持って私の面倒を見るということになったようです」。
高校生活では同級生たちとのギャップを感じることもあったという。
「緊張の連続でしたね。彼氏がいる子もいっぱいいるし、下ネタも多かった。"今の話わかんない、ちょっと待って"みたいな。今まで修行の服しか来てこなかったので、どんな格好したらいいんだろうみたいな(笑)。一枚500円で売ってるところで服を買ってましたね」。
2000年にアレフと改称した教団との関係も疑われ続けた。
「自分には学校に行きたいという夢があったので、教団とは関わっていられないし、アレフにも入りませんでした」。
進学を希望した麗華さんは大学受験の準備に取り掛かる。著者『止まった時計』では当時の思いを「心理学を学びたいと考えるようになりました。心の問題を解決する方法があるならそれを知りたいし、その方法を学んで人の役に立てるようになりたいなと思うようになったからです」と綴っている。
しかし学力は志望校に合格できるレベルまでに伸びず、不合格が続いた。ようやく高校の内申書で進学できる大学を見つけ、合格。心を踊らせていた矢先、「入学を許可しませんのでご了承ください」という電報が届いた。
またしても一浪することになった麗華さんは、猛勉強の末、文教大学に合格した。いじめを受けないか心配したが、友達の意外な行動に驚いた。
「諦めていたんです。報道もされていたし友達は出来ないなって。そしたら5月のある日、クラスメイトに"おはよう"って声をかけられて」。
実は麗華さんが入るクラスの教員が、学生たちを交え「彼女を受け入れるべきか」について討論をしていたのだという。受け入れるべきだとした学生たちが麗華さんのケアを担当、無事に4年で卒業することができた。
アレフとの関係を疑われる日々は続く。2014年には公安調査庁が麗華さんをアレフの現役幹部として認定。しかし、麗華さんは団体からの金銭的援助など、一貫して関係を否定している。
『止まった時計』には、アレフとの関係を続ける家族にまで翻弄される様子も描かれている。
「母は素知らぬ顔で『アーチャリー正大師は尊師に指名された、長老部の座長です』などと私を持ち上げ、実際には自分の意見をあたかも私の意見のようにして、みんなを従わせました」(『止まった時計』より)
一時は薬を大量に飲むなどして、自殺を図ったこともあったというが、父に対する愛情や信頼、努力を見せたいという想いから、耐え忍んだ。
■ 「お父さんことは好きですか?」「大好きですね」
麗華さんがそのような状況に追い込まれたのは、他ならぬ父・松本死刑囚のせいだ。
にもかかわらず、麗華さんは、「お父さんのことは好きですか」との問いに、「大好きですね」と即答する。「父がいてくれたから、人を好きになるっていう気持ちを持っているので」。また、「生まれ変わったらまた同じお父さんの元に生まれたいと思いますか?」との質問にも、「思います。そして教団が罪を犯す未来がわかっていたら父を説得します」と答えた。
大学入学から半年後の2004年には、そんな父との面会も叶った。事件についても問い質したかったが、意思の疎通が全く出来ない姿に、精神の病を患っていると感じた。父と事件との関わりについて、自分の中ではいまだ結論を出すことが出来ないでいる。
「私は、父がサリン事件の首謀者だったかどうかは分からないという立場を取っているんです。裁判が始まって早々に病気になり、自分の意思を失っていたし、盲目で手紙も書けないんですから」。
公判では事件について何も語らなかった松本死刑囚。麗華さんは本人に事件の真相を語らせるためにも、治療を行い、父が生きているうちに真実を明らかにしたいと考えている。
取材前日も、麗華さんは父との面会を求め、東京拘置所に足を運んだ。しかし、叶わなかった。
「病気で面会できないと言われるんです」。この10年、拘置所側からは"本人が頑として動こうとせず、面会もしません"と説明され続けてきたという。「もしも、父の口から語られた真相が、どんなに残酷で、父がどんなに極悪人だったという話だとしても、真相を知りたいんです」。
「何かあった時に、頑張ろうと思えるのは、父の存在があるからです。ただ、今は私が守ってあげないといけない、介護しないといけない存在になったので『お父さん、私、辛いのよ助けて』というところから『お父さん大丈夫、私頑張るから守ってあげるから』みたいな気持ちに変わっていますね」。
■ 堀潤氏「犯罪加害者の家族の人権について、もっと目を向けるべき」
犯罪加害者の家族だからというだけで、冷たくあしらわれ続けてきた麗華さん。事件から22年、「松本麗華」として、クリニックでのアルバイトなどで生計を立てながら、新たな人生を歩もうとしている。
自伝を出版した理由について麗華さんは「履歴書に自分の名前を書くのが怖かった。名前を検索するとすぐ「松本麗華 アーチャリー オウム」と出てくるから。でも、隠れていても意味がないと思った」と話す。
日本には麗華さん以外にも、同じような問題を抱える人々がいる。
「加害者の家族なのだから、何か犯罪を起こすのではないか?」という見方をされることについて麗華さんは、「それは事件を真剣に考えていないからだと思います。渦中にいたら、また事件を起こそうと考える人はいないですよ」。
また、マスコミ報道についても「オウム真理教の"その他大勢"の人たちは虫も殺せない人たちでした。たとえオウム的な価値観が染み付いていたとしても、事件に走るということはないと思う」と、オウム真理教に属していたこと自体が悪だというような表現に疑問を呈する。
麗華さんの話を聞いたジャーナリストの堀潤氏は「オウム事件は断罪されなければならないし、なぜあのようなことが起きたのを解明し、被害者のご家族と向き合っていかなければならないのは当然」とした上で、「犯罪加害者の家族と社会がどう向き合っていくのか、という議論はこれまで抜け落ちてきたと思う」と指摘。
「社会からの憎悪を浴び、孤立させたままにしておくことが、再び犯罪につながる可能性もある。加害家族は声を上げるのも怖い、誰が仲間になってくれるかもわからない。サポートするのも、一部の市民運動家や人権派の弁護士に留まってきた。例えば麗華さんが義務教育も受けられない状況だったのに、それを放置しておいて本当に良かったのか。麗華さんの人生は、そういうことについて考える必要があるという問題提起になっている。メディアはもっと目を向けるべきだ」と話した。(AbemaTV/AbemaPrimeより)