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 「後ろにもう区切りをつけて結論を出そう。16日に解散をします。やりましょう、だから」「今総理、16日に選挙をやる約束ですね。約束ですね。よろしいんですね。よろしいんですね」

 2012年11月、野田佳彦総理大臣と自民党総裁・安倍晋三氏の党首討論で飛び出した解散発言。このわずか2日後に衆議院は解散し、師走の総選挙に突入、民主党政権から自民党政権へと再度の政権交代が起こった。これはかつて志半ばで総理を辞任した安倍氏の"究極のリベンジ"でもあった。AbemaTV『AbemaPrime』が注目すべき過去の衆院総選挙を振り返るシリーズの第5回は、自民党・安倍氏が再び政権を奪取するに至る過程を振り返る。

目次

  • ■ねじれ国会、体調不良で辞任へ
  • ■野田総理との舌戦、返り咲き
  • ■"盟友"が見た退陣、そして再起

■ねじれ国会、体調不良で辞任へ

 2006年9月、小泉純一郎氏の任期満了に伴う自民党総裁選に名乗りを上げたのが、谷垣禎一氏、麻生太郎氏、そして安倍氏の3人だった。当時最年少だった安倍氏は2人を破り総裁に就任。初の戦後生まれの総理大臣が誕生した。安倍総理は「美しい国づくり」を掲げ、北朝鮮による拉致問題や教育基本法改正、国民投票法制定などに注力した。しかし、相次ぐ失言やスキャンダルで5人の閣僚が次々と辞任、支持率は急降下した。翌年7月の参院選で自民党の議席が過半数割れし、第一党の座を民主党に奪われる大敗を喫してしまう。

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 退を促す声もある中で続投を表明した安倍総理は内閣改造を決行。9月の臨時国会冒頭では所信表明演説も行ったが、わずか2日後に電撃辞任を表明。体調不良が原因とも言われたが、辞任会見では病気については一切触れなかった(後に慶應義塾大学病院で会見し説明)。第1次安倍内閣はわずか1年で終わり、自身も表舞台から身を引いた。

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 自民党は続く福田内閣、麻生内閣でも支持を回復できないまま、2009年8月の衆院選に突入。1955年の結党以来、初めて第一党を奪われ野党に転落。民主党が国民から圧倒的な支持を得て政権を奪取した。

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 「脱官僚」「政治主導」を掲げ、「事業仕分け」を実施するなど、内閣発足当初は高い支持率を得ていた民主党政権。しかし政治とカネの問題、普天間基地移設問題などの影響で勢いは長くは続かず、支持率は徐々に低下した。翌2010年の参院選では自民党に大敗を喫し、再び衆参のねじれ国会が出現した。さらに2011年3月には東日本大震災が発生、菅直人総理は自ら陣頭指揮を取る姿勢を示したものの、政府の初動対応の遅れなどが批判を浴び、国民の不満は最高潮に達した。菅総理は8月に退陣、民主党代表には野田佳彦氏が就任した。

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■野田総理との舌戦、返り咲き

 景気が低迷を続ける中、安倍氏が再び動きをみせるようになった。総理を退任してからは東京・谷中の全生庵で月に一度、座禅を組み、超党派の議員連盟「創生日本」の会長として勉強会を重ね政策の骨格や人脈を形成。デフレ脱却、経済成長を訴え、後に「アベノミクス」と呼ばれる構想を打ち出していく。そして、2012年9月、党内からは自重すべきとの声をはねのけて谷垣禎一氏の後継を決める自民党総裁選挙に出馬。5人の候補者が乱立する中、安倍氏は下馬評を覆し1回目の投票で石破茂氏に次ぐ2位につけ、決選投票で自民党総裁に返り咲いた。

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 一方、「社会保障と税の一体改革」を掲げた野田総理は2012年8月に参議院で自民、公明両党の協力を得るための党首会談を行い、衆院解散をちらつかせることで合意を得た。しかし解散の約束は履行されることなく、時間が過ぎていった。そして2012年11月、自民党総裁となった安倍氏と野田総理が、党首討論で初めて対峙した。25分にもおよぶ論戦の末、安倍氏は「一票の格差と定数削減」に賛同することで、冒頭の言葉を引き出した。

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 「16日に解散していただければ、そこで国民の皆さんにゆだねようではないか。どちらが政権を担うのにふさわしいか。」

 「覚悟の無い自民党に政権は戻さない。その覚悟で我々も頑張ります。」

 2日後、衆議院は解散。師走に行われた総選挙では12の国政政党が乱立。「日本を、取り戻す」をキャッチフレーズに、景気回復、震災復興、原発政策を争点に戦った自民党が294議席を獲得、再び政権に返り咲いた。そして2012年12月26日、第2次安倍内閣が発足する。

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 「私は96代の総理大臣でありますが、90代の総理でもありました。1年間で終わらざるを得なかった政権の担当者として大きな責任を感じています。同時に、政権を担った経験、挫折をした経験を活かしていきたい。そうした不安を国民の皆様に二度と抱かせることがないような政権運営をしていきたい」。

 突然の退陣から5年を経て、政権奪還を実現させた安倍総理。経済政策「アベノミクス」を前面に打ち出し、"安倍一強"時代は2017年の現在まで続く。

■"盟友"が見た退陣、そして再起

 安倍総理とも親しい荒井広幸・元参議院議員は2007年の安倍総理退陣についてこう話す。

 「安倍さんから電話がかかって来て、"荒井さん、期待に応えられなくて、ご"と言いかけたので、咄嗟に私は"ごめんなさい"だと感じた。それを言わせてはいけないと思ったので、"いやいや、お疲れ様でした。とにかくゆっくり休んでください"とねぎらった。仕上げた法律も多かったので、大変残念だった」。

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 当時から自民党を取材してきたテレビ朝日政治部の藤川みな代・官邸キャップは「当時は"辞め時を間違ったのではないか"という印象を抱いた。参議院選挙で敗北した時に辞めていれば、責任を取って潔いと、次にも繋がるのに、こんなにバッシングをされ、ボロボロになって辞めたとなると、もう次はないのではと思った」と話す。自民党にいても活路が見い出せないのではないかとの見方さえあり、関係者とも接触を重ねていたことから、維新の会合流なども取り沙汰されていたという。

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 安倍総理に再起を決意させたものは一体何だったのだろうか。

 安倍総理には、当選1回の時に3か月間入院したことがあった。見舞に訪れた荒井氏が何を言っても動じなかった安倍総理は「永田町で忘れられてますよ」との言葉に激怒したという。荒井氏は、将来を見据える政治家として、それだけはどうしても許せないことだったようだと振り返る。

 「(第一次安倍政権は)途中で放り投げた形になってしまった。すごく恥ずかしい、大変なことをしたという気持ちがあったと思う。参院選で負けた時に辞めなかったのは、どうしてもやりたいことがあったからだ。そして東日本大震災。民主党政権の対応を見ていて、自分ならもっとやれるのにという思いがあった。安倍さんは総理を辞めてから、やりたいこと、やれなかったことをノートに書き綴っていた」。

  第1次政権では保守的な理念を先行させた一方、第2次政権では経済政策を前面に出している安倍総理。藤川氏は「"戦後レジームからの脱却"など、思想信条に関わることが注目されていたが、第2次政権になってからは経済最優先。随分リアリストになったと評価する声もある」と話す。一方、野党からは森友・加計学園問題など、長期政権になったことでの緩みを指摘する声も根強い。荒井氏は「反省しないといけない。私はもう1回、安倍さんに変わってもらいたい」と訴えた。

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 いよいよ投開票まであと一週間。北朝鮮問題・消費増税の使途変更を訴えて解散総選挙に打って出た安倍総理に、どのような審判が下されるのだろうか。(『AbemaPrime』より)

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